事件・合戦ページ / 1573年8〜9月・北近江 小谷山

小谷城の戦いおだにじょうのたたかい

小谷城の戦いとは?

1573年9月、織田信長おだ のぶながが浅井長政の本拠・小谷城を攻め落とし、長政は自害して浅井氏が滅亡した戦い。

1573年8月8日、琵琶湖岸の山本山城を守る阿閉あつじ氏が織田方に寝返ります。信長はただちに岐阜を出て、小谷城の目の前の虎御前山に入ります。
浅井家臣の浅見氏も寝返り、朝倉軍の守る小谷山最高峰の大嶽おおづく城が落城。朝倉軍は越前へ撤退し、追撃した信長に滅ぼされて、小谷城は孤立します。
8月27日の夜中、秀吉が城の中央の京極丸きょうごくまるを奪い、本丸の長政と、隠居した父・久政が分断されます。久政は自害しました。
9月1日、長政が自害して浅井氏は滅亡。3年におよんだ織田と浅井の戦争が終わります。

阿閉の寝返り——琵琶湖岸の支城が離れ、信長が動く

信長は前年の1572年7月から、小谷の城下を焼き、目の前の虎御前山とらごぜやまに城を築いて小谷城を封じ込めていた(守将は秀吉)。救援に来た朝倉義景も、年末には越前へ帰陣する。この膠着を破ったのが、1573年8月8日の寝返りだった。

寝返った男 山本山城の阿閉貞征あつじさだゆき

琵琶湖岸の山本山城を守る浅井の重臣で、姉川のあとも浅井方として戦い続けていた。その阿閉氏が8月8日、織田方に降り、小谷城の西の守りが抜けた。

動いた信長 2日後には目の前に

報せを受けた信長はただちに岐阜を出発し、大軍を率いて10日に虎御前山へ入った。寝返りから総攻撃まで、信長はこの機を逃さず動き続けることになる。

浅見の寝返り——小谷山の頂が落ち、朝倉が消える

信長がまず狙ったのは本丸ではなく、小谷山の最高峰・大嶽城だった。ここには朝倉の援軍が入っていた。ただし、その入口にあたる砦・焼尾丸を守っていたのは、朝倉ではなく浅井の家臣・浅見氏だった。

落ちた頂 大嶽城おおづくじょう

阿閉に続いて浅見氏も寝返り、8月12日、開いた入口から大嶽城は攻め落とされた。城の一番高い場所から、浅井の本丸が見下ろされる形になる。

落ちた西 丁野山城ようのやまじょう

同じ日、小谷の西の支城・丁野山城も攻められ、守将の平泉寺玉泉坊が降伏した。小谷を囲む朝倉の拠点は、一日で消えた。

京極丸の陥落——秀吉が城の真ん中を奪い、父子を分断

援軍の消えた小谷城に、8月27日の夜中、総攻撃がかかった。秀吉が攻め上ったのは本丸ではなく、その背後にある京極丸だった。京極丸は夜のうちに落ち、父子は分断される。

なぜ京極丸か 父子のあいだを断つ

小谷城の曲輪くるわは尾根に一列に並び、京極丸は、長政のいる本丸と、隠居した父・久政のいる小丸のあいだにある。ここを取れば父子は連絡も合流もできない。信長公記しんちょうこうきはこの夜の攻めを「父子の間を切り取り」と記している。

久政の最期 介錯は舞の名手

分断された久政は、小丸で自害した(49歳)。信長公記は、久政が長年目をかけた舞の名手・鶴松太夫つるまつだゆうが介錯を務め、そのあと自分も腹を切って殉じたことを書き残している。

小谷城の落城——長政が自害し、浅井氏が滅ぶ

京極丸が落ちたあとも、長政は本丸で数日持ちこたえた。そして9月1日、長政は自害する(29歳)。

最後の書状 落城2日前の礼状

8月29日、長政は籠城を続ける家臣・片桐氏へ、感謝を伝える書状を出した。滅びる2日前のこの礼状は片桐家に伝わり、「片桐文書」として今も残っている。

最期の場所 赤尾屋敷

9月1日、長政は本丸下の黒金門くろがねもんから最後の攻撃に打って出た。信長の兵に攻められて本丸へ戻れず、東下にある重臣・赤尾氏の屋敷に入って自刃したと伝えられる。

城を出た家族 お市と三姉妹

長政の妻・お市の方(信長の妹)と、茶々・初・江の三姉妹は、織田方へ引き取られて生き延びた。

処刑された嫡男 万福丸

嫡男の万福丸まんぷくまる(10歳)は捕らえられ、落城の1か月半後、関ヶ原で処刑された。母がお市の方かどうかは、輿入れの年次に諸説があって決めきれない。

小谷城の戦いが残したもの——秀吉の長浜と、三姉妹のその後

金ヶ崎の離反に始まった織田との戦争は、ここで終わった。姉川で並んで戦った浅井と朝倉は半月のうちに相次いで滅び、亮政すけまさから三代・約50年続いた北近江の浅井氏は消えた。

秀吉の長浜 城下町ごと湖岸へ移る

浅井の旧領・北近江は秀吉に与えられた。秀吉は山上の小谷城ではなく琵琶湖岸の今浜に新しい城を築き、地名を「長浜」と改める。小谷城下の商人たちも長浜へ移され、小谷の城下町は姿を消した。長浜城の築城には、小谷城の石材が使われたともいわれる。秀吉が初めて城持ちの大名になった、出世の地である。

小谷城の戦いの疑問に答える

姉川の戦いに勝ったのに、なぜ落城まで3年かかった?

信長公記が姉川の直後に「高くけわしい要害で、一気に攻め上るのは難しい」と記した堅城で、北から朝倉の援軍も来られたため。信長は力攻めを避けて虎御前山の城で封じ込め、1572年には城下町を壊して、麓の屋敷が並ぶ谷の最奥、水源の「水の手」まで攻め込んでいる。決め手は朝倉の滅亡だった。

京極丸って、どういう名前?

城の中央部にある、本丸に次ぐ広さの曲輪で、名前は、浅井氏が形のうえでの主君・京極氏をここに住まわせたことによるとされる。

小谷城って、今のどこ?

滋賀県長浜市の小谷山(標高495m)になる。琵琶湖の北東で、姉川の古戦場から北へすぐ。南西には、信長が対の城を築いた虎御前山が向かい合って並ぶ。

現地に何か残っている?

小谷城跡は国指定史跡として山全体が残る。本丸の石垣、山王丸の大石垣、長政自刃の地と伝わる赤尾屋敷跡の碑が尾根に並び、麓には小谷城戦国歴史資料館がある。大正13年に生まれた地元の保存会が、100年にわたって城跡を守り続けている。

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参考にした資料