小谷城の戦いとは?
阿閉の寝返り——琵琶湖岸の支城が離れ、信長が動く
信長は前年の1572年7月から、小谷の城下を焼き、目の前の虎御前山に城を築いて小谷城を封じ込めていた(守将は秀吉)。救援に来た朝倉義景も、年末には越前へ帰陣する。この膠着を破ったのが、1573年8月8日の寝返りだった。
寝返った男 山本山城の阿閉貞征
琵琶湖岸の山本山城を守る浅井の重臣で、姉川のあとも浅井方として戦い続けていた。その阿閉氏が8月8日、織田方に降り、小谷城の西の守りが抜けた。
動いた信長 2日後には目の前に
報せを受けた信長はただちに岐阜を出発し、大軍を率いて10日に虎御前山へ入った。寝返りから総攻撃まで、信長はこの機を逃さず動き続けることになる。
浅見の寝返り——小谷山の頂が落ち、朝倉が消える
信長がまず狙ったのは本丸ではなく、小谷山の最高峰・大嶽城だった。ここには朝倉の援軍が入っていた。ただし、その入口にあたる砦・焼尾丸を守っていたのは、朝倉ではなく浅井の家臣・浅見氏だった。
落ちた頂 大嶽城
阿閉に続いて浅見氏も寝返り、8月12日、開いた入口から大嶽城は攻め落とされた。城の一番高い場所から、浅井の本丸が見下ろされる形になる。
落ちた西 丁野山城
同じ日、小谷の西の支城・丁野山城も攻められ、守将の平泉寺玉泉坊が降伏した。小谷を囲む朝倉の拠点は、一日で消えた。
京極丸の陥落——秀吉が城の真ん中を奪い、父子を分断
援軍の消えた小谷城に、8月27日の夜中、総攻撃がかかった。秀吉が攻め上ったのは本丸ではなく、その背後にある京極丸だった。京極丸は夜のうちに落ち、父子は分断される。
小谷城の落城——長政が自害し、浅井氏が滅ぶ
京極丸が落ちたあとも、長政は本丸で数日持ちこたえた。そして9月1日、長政は自害する(29歳)。
最後の書状 落城2日前の礼状
8月29日、長政は籠城を続ける家臣・片桐氏へ、感謝を伝える書状を出した。滅びる2日前のこの礼状は片桐家に伝わり、「片桐文書」として今も残っている。
最期の場所 赤尾屋敷
9月1日、長政は本丸下の黒金門から最後の攻撃に打って出た。信長の兵に攻められて本丸へ戻れず、東下にある重臣・赤尾氏の屋敷に入って自刃したと伝えられる。
城を出た家族 お市と三姉妹
長政の妻・お市の方(信長の妹)と、茶々・初・江の三姉妹は、織田方へ引き取られて生き延びた。
処刑された嫡男 万福丸
嫡男の万福丸(10歳)は捕らえられ、落城の1か月半後、関ヶ原で処刑された。母がお市の方かどうかは、輿入れの年次に諸説があって決めきれない。
小谷城の戦いが残したもの——秀吉の長浜と、三姉妹のその後
金ヶ崎の離反に始まった織田との戦争は、ここで終わった。姉川で並んで戦った浅井と朝倉は半月のうちに相次いで滅び、亮政から三代・約50年続いた北近江の浅井氏は消えた。
小谷城の戦いの疑問に答える
姉川の戦いに勝ったのに、なぜ落城まで3年かかった?
信長公記が姉川の直後に「高くけわしい要害で、一気に攻め上るのは難しい」と記した堅城で、北から朝倉の援軍も来られたため。信長は力攻めを避けて虎御前山の城で封じ込め、1572年には城下町を壊して、麓の屋敷が並ぶ谷の最奥、水源の「水の手」まで攻め込んでいる。決め手は朝倉の滅亡だった。
京極丸って、どういう名前?
城の中央部にある、本丸に次ぐ広さの曲輪で、名前は、浅井氏が形のうえでの主君・京極氏をここに住まわせたことによるとされる。
小谷城って、今のどこ?
滋賀県長浜市の小谷山(標高495m)になる。琵琶湖の北東で、姉川の古戦場から北へすぐ。南西には、信長が対の城を築いた虎御前山が向かい合って並ぶ。
現地に何か残っている?
小谷城跡は国指定史跡として山全体が残る。本丸の石垣、山王丸の大石垣、長政自刃の地と伝わる赤尾屋敷跡の碑が尾根に並び、麓には小谷城戦国歴史資料館がある。大正13年に生まれた地元の保存会が、100年にわたって城跡を守り続けている。