人物ページ / 生年不詳〜1573・浅井家の舞人

鶴松太夫つるまつだゆう

鶴松太夫とは?

浅井家に仕えた舞人まいびと(舞の芸能者)。1573年、小谷城落城の夜に、長年目をかけられた主君・浅井久政を介錯かいしゃくし、自らも追い腹を切って殉じた。その死は敵方の記録・信長公記に「名誉、是非なき次第」と特筆された。

北近江の伊香郡いかぐん森本村の出身と伝わり、舞の芸能者として浅井家に仕えます。当主の座を退いた浅井久政に、長年目をかけられました。
久政の贈り物に添えた鶴松太夫の書状が今も残ります。舞うだけでなく、主君の側で取次の実務も担っていました。
1573年8月27日の夜、小谷城の京極丸が落ち、久政は自害を決めます。鶴松太夫は主君を介錯し、自らも腹を切りました。
敵方の記録・信長公記がその死を特筆し、後の世には忠義の手本として引かれました。

浅井家の舞人——伊香郡森本村から、久政の側へ

鶴松太夫は、浅井家に仕えた舞人である。生年は伝わらない。地元の郡誌は「伊香郡森本村の人」と注記しており、小谷城の北にあたる湖北の村の出身だった。

舞人という立場 「舞をよく仕り候者」

戦国の大名家には、舞やうたいを担う芸能者を側に置く家があった。鶴松太夫は浅井家お抱えの舞人で、信長公記に「舞をよく仕り候者」と記される。

久政との縁 「年来目を懸けられ候」

仕えたのは、当主の座を子の長政に譲ったのちの浅井久政だった。信長公記は「年来目を懸けられ候」——長年かわいがられた——と、二人の間柄を書き残している。

添状の筆——現存する書状が残す、側近の日常

鶴松太夫の日常を伝える記録が、一通だけ残っている。11月28日付(1571年ごろとみられる)、島四郎左衛門尉しましろうざえもんのじょうに宛てた添状そえじょうである。

書状の中身 贈り物の取次役

久政から島氏への贈り物(三種二荷)に添えられた取次の手紙で、「御さかなはございませんが、ご案内のしるしまで」と口上を述べる。久政の贈り物の目録にも、鶴松太夫の名が見える。

舞人以上の役目 実務を任された側近

贈答の取次は、主君の名代として先方と言葉を交わす仕事になる。鶴松太夫が久政の側近くで、日々の実務まで任される存在だったことがうかがえる。

落城の夜——死別の盃、久政の介錯、追い腹

1573年8月27日の夜、小谷城の戦いの総攻撃で京極丸が落ち、小丸にいた久政は自害を決めた。鶴松太夫はその場にいた。

語られ方 死別の盃と、縁側の最期

江戸時代の軍記はこの夜を細かく描く。久政は防ぎ矢を命じ、一族の浅井福寿庵ふくじゅあんと死別のさかずきを交わして、その盃を鶴松太夫にも与えた。そして主君の死後、鶴松太夫は縁側に退き出て、自らの腹を切った——と。

確かめられること 介錯と追い腹

同時代の記録で確かめられるのは、行動そのものになる。久政を介錯し、そのあと自らも腹を切った。死別の盃や縁側の所作は後世の軍記による肉付けで、同時代の記録には無い。

「名誉、是非なし」——敵方の記録が特筆した死

落城で死んだ者は数多い。そのなかで鶴松太夫の名が残ったのは、敵方の記録者・太田牛一おおたぎゅういちが一行を割いたからである。

異例の一行 「名誉、是非なき次第なり」

信長公記は「鶴松太夫も追腹仕り、名誉是非なき次第なり」と記す。見事という他ない、という意味の讃辞で、敵方の、しかも武士でない芸能者に向けられた異例の一行になる。

忠義の手本へ 後の世に引かれた

明治の史家・徳富蘇峰はこの一行を「太田牛一も特筆して居る」と取り上げ、昭和の武士道の解説書は主君への忠義の実例として引いた。舞人の死が、武士の手本として語り継がれた。

鶴松太夫の疑問に答える

「太夫」ってどういう名前?

太夫たゆうは芸能者の称号になる。「鶴松」も芸名とみられ、本名は伝わっていない。

介錯って何?

切腹する人の苦しみを長引かせないよう、首を斬って介添えする役のこと。信頼できる者が務めるもので、主君の介錯を任されたこと自体が、久政の信頼の深さを示している。

出身の森本村って、今のどこ?

旧伊香郡の森本村で、今の滋賀県長浜市の北部にあたる。小谷城からは北へ、湖北の山あいに入った一帯になる。

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参考にした資料