鶴松太夫とは?
浅井家に仕えた舞人(舞の芸能者)。1573年、小谷城落城の夜に、長年目をかけられた主君・浅井久政を介錯し、自らも追い腹を切って殉じた。その死は敵方の記録・信長公記に「名誉、是非なき次第」と特筆された。
浅井家の舞人——伊香郡森本村から、久政の側へ
鶴松太夫は、浅井家に仕えた舞人である。生年は伝わらない。地元の郡誌は「伊香郡森本村の人」と注記しており、小谷城の北にあたる湖北の村の出身だった。
舞人という立場 「舞をよく仕り候者」
戦国の大名家には、舞や謡を担う芸能者を側に置く家があった。鶴松太夫は浅井家お抱えの舞人で、信長公記に「舞をよく仕り候者」と記される。
久政との縁 「年来目を懸けられ候」
仕えたのは、当主の座を子の長政に譲ったのちの浅井久政だった。信長公記は「年来目を懸けられ候」——長年かわいがられた——と、二人の間柄を書き残している。
添状の筆——現存する書状が残す、側近の日常
鶴松太夫の日常を伝える記録が、一通だけ残っている。11月28日付(1571年ごろとみられる)、島四郎左衛門尉に宛てた添状である。
書状の中身 贈り物の取次役
久政から島氏への贈り物(三種二荷)に添えられた取次の手紙で、「御肴はございませんが、ご案内のしるしまで」と口上を述べる。久政の贈り物の目録にも、鶴松太夫の名が見える。
舞人以上の役目 実務を任された側近
贈答の取次は、主君の名代として先方と言葉を交わす仕事になる。鶴松太夫が久政の側近くで、日々の実務まで任される存在だったことがうかがえる。
落城の夜——死別の盃、久政の介錯、追い腹
1573年8月27日の夜、小谷城の戦いの総攻撃で京極丸が落ち、小丸にいた久政は自害を決めた。鶴松太夫はその場にいた。
語られ方 死別の盃と、縁側の最期
江戸時代の軍記はこの夜を細かく描く。久政は防ぎ矢を命じ、一族の浅井福寿庵と死別の盃を交わして、その盃を鶴松太夫にも与えた。そして主君の死後、鶴松太夫は縁側に退き出て、自らの腹を切った——と。
確かめられること 介錯と追い腹
同時代の記録で確かめられるのは、行動そのものになる。久政を介錯し、そのあと自らも腹を切った。死別の盃や縁側の所作は後世の軍記による肉付けで、同時代の記録には無い。
「名誉、是非なし」——敵方の記録が特筆した死
落城で死んだ者は数多い。そのなかで鶴松太夫の名が残ったのは、敵方の記録者・太田牛一が一行を割いたからである。
異例の一行 「名誉、是非なき次第なり」
信長公記は「鶴松太夫も追腹仕り、名誉是非なき次第なり」と記す。見事という他ない、という意味の讃辞で、敵方の、しかも武士でない芸能者に向けられた異例の一行になる。
忠義の手本へ 後の世に引かれた
明治の史家・徳富蘇峰はこの一行を「太田牛一も特筆して居る」と取り上げ、昭和の武士道の解説書は主君への忠義の実例として引いた。舞人の死が、武士の手本として語り継がれた。
鶴松太夫の疑問に答える
「太夫」ってどういう名前?
太夫は芸能者の称号になる。「鶴松」も芸名とみられ、本名は伝わっていない。
介錯って何?
切腹する人の苦しみを長引かせないよう、首を斬って介添えする役のこと。信頼できる者が務めるもので、主君の介錯を任されたこと自体が、久政の信頼の深さを示している。
出身の森本村って、今のどこ?
旧伊香郡の森本村で、今の滋賀県長浜市の北部にあたる。小谷城からは北へ、湖北の山あいに入った一帯になる。
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参考にした資料
- 国立国会図書館デジタルコレクション『信長公記』巻之上・明治14年翻刻(「年来目を懸けられ」「舞をよく仕り候者」・介錯と追い腹・「名誉是非なき次第」の原文)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『坂田郡志』上・1913年(添状の本文・「伊香郡森本村の人、浅井家の舞人」の注記)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『東浅井郡志』巻4・1927年(鶴松太夫添状・浅井久政音物目録の収録)
- 国立国会図書館デジタルコレクション 徳富蘇峰『近世日本国民史 織田氏時代 中篇』(後世の評価・総見記系の盃の場面)
- 国立国会図書館デジタルコレクション『日本武士道詳論』1934年(忠義の実例としての引用)
- 長浜市教育委員会「史跡小谷城跡保存管理計画書」(落城の経過・久政の最期)