勢力ページ / 北近江・三代50年の家

浅井氏あざいし

浅井氏(浅井家)は、北近江(滋賀県北部)の小谷城おだにじょうを本拠とした戦国大名の一族です。もとは北近江の守護・京極氏に仕える国人でしたが、浅井亮政が京極家の内紛に乗じて自立し、久政・長政と三代およそ50年続きました。長政は織田信長おだ のぶながの妹・お市の方を妻に迎えて信長と結びますが、朝倉氏との関係を選んで離反し、1573年に小谷城で滅びました。大名としての浅井氏は短命でしたが、長政とお市の娘である茶々・初・江の三姉妹を通じて、その血は豊臣家・京極家・徳川将軍家へ続いています。

京極氏の家臣から自立 亮政・久政・長政の三代 お市の方と三姉妹 1573年 小谷城落城
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要点

  • 出発点は京極氏の家臣。北近江の守護・京極氏の被官だった浅井亮政が、1520年代に京極家の内紛に乗じて主導権を握り、小谷城を築いて自立した。
  • 南の六角氏との争いが続いた。亮政・久政の代は南近江の六角氏に押され、久政は六角氏に従属する形をとった。長政が1560年の野良田の戦いで六角氏を破り、自立を取り戻した。
  • 長政は信長と結び、そして離れた。お市の方を妻に迎えて信長と同盟したが、1570年、信長が朝倉氏を攻めると離反。金ヶ崎の退き口、姉川の戦いへつながった。
  • 1573年、小谷城で滅んだ。朝倉氏が滅んだ直後、小谷城は秀吉らに攻められて落城。久政・長政は自害し、嫡男の万福丸は処刑された。
  • 血筋は三姉妹が伝えた。お市と三人の娘は城を出て生き延びた。茶々は秀吉の側室(淀殿)、初は京極高次の妻、江は徳川秀忠とくがわ ひでただの妻となり、浅井の血は天下人の家へ続いた。
家のはじまり

浅井氏は、どうやって北近江の主になったのか

  1. 01亮政:京極氏の内紛から自立

    浅井亮政(長政の祖父)は京極氏の家臣でしたが、1523年に京極家の家督争いに乗じて国人たちをまとめ、主導権を握りました。1525年ごろに小谷城を築き、北近江の実質的な支配者となります。

  2. 02久政:六角氏に押される

    浅井久政(長政の父)の代には南近江の六角氏の圧力が強まり、久政は六角氏に従属して家を保ちました。家中には不満がくすぶっていたとされます。

  3. 03長政:六角氏を破って自立

    1560年、若い浅井長政は野良田の戦いで六角軍を破り、家督を継いで六角氏からの自立を果たしました。浅井氏の勢いはこのとき最も高まります。

浅井氏は、守護の家臣だった国人が主家の混乱に乗じて自立した型の戦国大名で、三代50年という短さが特徴です。同じ近江で争った相手は六角義賢ろっかく よしかたのページで、亮政・久政については浅井亮政あざい すけまさ浅井久政あざい ひさまさで整理しています。

長政と信長

長政はなぜ、信長から離れたのか

  • 信長との同盟。美濃を手に入れた信長にとって、上洛路にあたる北近江の浅井氏は重要な相手だった。1567〜68年ごろ、長政は信長の妹・お市の方を妻に迎え、両家は同盟を結んだ。
  • 朝倉氏との関係。浅井氏は亮政の代から越前の朝倉氏と結びつきが深く、六角氏と争う際にも朝倉氏の支援を受けてきた。同盟の際、信長は朝倉氏を攻めないと約束したとも伝わるが、確かな史料はない。
  • 1570年の離反。信長が朝倉氏を攻めて越前に入ると、長政は朝倉方につき、信長の背後を突いた。信長は金ヶ崎から命からがら撤退した(金ヶ崎の退き口)。
  • 姉川から小谷へ。同年の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は織田・徳川軍に敗れ、以後、浅井氏は信長包囲網の一角として戦い続けたが、小谷城は次第に孤立していった。

離反の理由は朝倉氏との義理、家中の反信長派の圧力、信長の勢力拡大への警戒などが挙げられますが、一つには絞れません。詳しくは浅井・朝倉との決裂浅井長政あざい ながまさで整理しています。

滅亡と、そのあと

小谷城落城のあと、浅井の血はどこへ行ったのか

  • 1573年、小谷城落城。朝倉氏の滅亡から間もなく、羽柴秀吉らが小谷城を攻めた。久政・長政は自害し、浅井氏は三代で滅んだ。長政は29歳だった。
  • お市と三姉妹は城を出た。お市の方と茶々・初・江は落城前に信長のもとへ送られた。嫡男の万福丸は捕らえられて処刑され、男子の系統は絶えた。
  • 三姉妹が天下人の家へ。長女の茶々は豊臣秀吉とよとみ ひでよしの側室となって秀頼を産み、次女の初は京極高次の妻、三女の江は徳川秀忠の妻となって三代将軍家光を産んだ。
  • 旧領は秀吉が治めた。浅井氏の旧領は羽柴秀吉に与えられ、秀吉は長浜城を築いて初めて城持ち大名となった。浅井氏の滅亡は、秀吉の出世の出発点でもある。

三姉妹のその後は浅井三姉妹で、落城の経過は小谷城の戦いで読めます。

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浅井氏をめぐる人物

浅井氏についてのよくある疑問

浅井は「あさい」と「あざい」どちらが正しいのか?

現在の歴史研究や地元の長浜市では「あざい」と読むのが一般的で、このサイトもそれに従っています。一方で「あさい」と読む資料も古くからあり、どちらか一方だけが正しいと断定はできません。同じ漢字でも時代や資料によって読みが揺れる例の一つです。

長政はなぜ信長を裏切ったのか?

朝倉氏との長年の関係を重んじたとする見方が有名ですが、それだけでは説明しきれないと考えられています。父・久政を中心とする家中の反信長派の意向、信長が浅井氏を飛び越えて越前へ攻め込んだことへの警戒、浅井氏が信長の家臣のように扱われることへの反発などが重なったとみられます。「信長が朝倉氏を攻めないと約束していた」という話は後世の記録によるもので、確かめられていません。

浅井氏は滅んだのに、なぜよく知られているのか?

三姉妹の存在が大きいといえます。茶々は豊臣秀頼とよとみ ひでよりの母として大坂の陣の中心に立ち、江は徳川将軍家に嫁いで三代将軍家光を産みました。つまり浅井長政の孫が豊臣家と徳川家の両方の当主になっており、浅井氏は「滅んだ家」でありながら、天下人の家の血筋として語られ続けてきたのです。お市の方の生涯とあわせて、物語として語られやすかったことも理由の一つです。

小谷城はどんな城だったのか?

小谷山の尾根に沿って曲輪を連ねた大規模な山城で、本丸・京極丸・小丸などの名が残ります。京極丸の名は、浅井氏が形のうえでは京極氏を主君として城内に住まわせていたことに由来するとされます。落城の際、秀吉が京極丸を占拠して久政の小丸と長政の本丸を分断したと伝わります。城跡は国の史跡で、長浜市が保存と調査を進めています。

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参考にした資料