要点
- 鎌倉以来の近江守護。宇多源氏の流れをくむ佐々木氏の嫡流で、京都の六角の屋敷に住んだことから六角を名乗った。同族の京極氏とは近江を南北に分け合った。
- 幕府の討伐に耐えた。応仁の乱後、六角高頼は寺社や公家の領地を押領したとして将軍足利義尚・義材に二度攻められたが、甲賀の山中に退いて持ちこたえた。
- 定頼の代に最盛期。六角定頼は京都を追われた将軍足利義晴を保護し、管領代として幕政を動かした。三好長慶や細川氏と対等に渡り合った。
- 家臣に縛られた当主。義賢の代、重臣の後藤氏を殺害したことで家臣が反乱(観音寺騒動)。1567年、家臣団が当主の権限を制限する「六角氏式目」を定めさせた。
- 信長の上洛で退いた。1568年、足利義昭を奉じた信長の上洛軍に対し、六角氏は観音寺城を捨てて甲賀へ逃れた。以後は抵抗を続けたが、大名としては終わった。
六角氏は、どんな家だったのか
- 近江源氏の嫡流。佐々木氏は平安時代から近江に根を張り、源頼朝の挙兵に加わって近江守護となった。鎌倉中期に六角氏と京極氏に分かれ、六角氏が嫡流として南近江を、京極氏が北近江を担った。
- 室町時代も守護を続けた。一時は京極氏に守護職を奪われたが、六角氏は南近江の支配を保ち続けた。守護の家がそのまま戦国大名になった型である。
- 観音寺城を本拠とした。琵琶湖東岸の繖山に築かれた観音寺城は、石垣を多用した大規模な山城で、安土城より古い石垣が残る。京都と東国を結ぶ街道を押さえる位置にあった。
六角氏は、なぜ幕府の中心に関われたのか
- 011487〜91年:幕府の六角征伐に耐える
六角高頼は将軍足利義尚・義材に相次いで攻められましたが、甲賀の山中に退いて抵抗し、そのたびに観音寺城へ戻りました。幕府の権威が揺らいでいることを示す出来事でした。
- 021520〜50年代:定頼が将軍を支える
六角定頼は、細川氏の内紛で京都を追われた将軍足利義晴・義輝を近江で保護し、管領代として幕政を動かしました。観音寺城下の石寺では、楽市の早い例とされる政策も行われています。
- 031550年代:義賢も幕政に関わる
定頼の死後、六角義賢(承禎)も将軍義輝を支え、三好長慶と争いました。このころの六角氏は、畿内の有力者と対等に渡り合う勢力でした。
六角氏の強みは、京都に近い位置と、鎌倉以来の守護という家格でした。幕府が弱るほど、将軍を保護できる六角氏の価値は高まったといえます。
六角氏はなぜ、信長に抵抗できなかったのか
- 1563年、観音寺騒動。義賢の子・義治が重臣の後藤賢豊父子を殺害したことで家臣が反発し、義賢・義治は一時観音寺城を追われた。重臣の蒲生氏らの調停で戻ったが、当主の権威は大きく傷ついた。
- 1567年、六角氏式目。家臣団が当主に対して、裁判や所領の扱いに関する67か条の規定を認めさせた。当主が家臣の合意なしに動けない、戦国大名としては異例の仕組みである。
- 浅井氏に押された。北近江の浅井長政は1560年の野良田の戦いで六角軍を破り、六角氏の従属から離れた。南北から挟まれる形になった。
- 1568年、信長の上洛。足利義昭を奉じた織田信長は六角氏に協力を求めたが、義賢は拒んだ。信長軍が支城を落とすと、六角氏は観音寺城を捨てて甲賀へ退いた。
- 甲賀からの抵抗。義賢らは甲賀を拠点に信長包囲網の一角として抵抗を続けたが、1570年代に力を失った。義賢は秀吉の御伽衆となり、1598年に死去した。
六角氏をめぐる人物
六角氏についてのよくある疑問
六角氏はなぜあまり知られていないのか?
信長の上洛で観音寺城を捨てたため、「信長に一蹴された弱い大名」という印象が残りました。しかし定頼の時代の六角氏は将軍を保護して幕政を動かし、三好長慶や細川氏と対等に渡り合っており、畿内の政治を理解するうえで欠かせない存在です。近年、滋賀県が「六角氏だってすごかった」と題した展示を行うなど、再評価が進んでいます。
六角氏式目とは何か?
1567年、六角氏の家臣団が当主の義賢・義治に認めさせた67か条の法です。裁判の手続きや所領の扱いについて定め、当主が独断で家臣の所領を奪えないようにしました。武田氏や今川氏の分国法が当主から家臣へ向けた法であるのに対し、六角氏式目は家臣から当主へ向けた法で、戦国大名の法としては異例です。観音寺騒動で当主の信頼が失われた結果でした。
観音寺城の石垣は安土城より古いのか?
観音寺城には、信長の安土城より前の時代に築かれた石垣が残っています。戦国時代の山城は土を削って作るものが多いなかで、六角氏は早くから石垣を用いていました。安土城の石垣技術が観音寺城の影響を受けたとする見方もあり、滋賀県が調査と整備を進めています。
六角の家は絶えたのか?
大名としての六角氏は1568年で終わりました。義賢は秀吉の御伽衆として生き延び、子の義治は加賀前田家に仕えています。六角氏の一族や旧臣は各地の大名に仕え、江戸時代にも佐々木・六角の名を伝える家はありました。