要点
何をした人物か
定頼は六角高頼の子として生まれ、幼くして京都の相国寺に入っていました。兄の氏綱が家督を継ぎましたが病弱で政務を執れず、1518年、定頼は還俗して六角氏の当主となります。父・高頼は幕府の六角征伐を二度にわたって耐え抜いた人物で、定頼はその六角氏を守護大名から畿内の有力者へ押し上げました。
1520年代、細川高国と細川晴元の争いで幕府は混乱し、将軍足利義晴は京都を追われて近江に逃れます。定頼は義晴を保護し、幕府の政務を近江から支えました。幕府は定頼を管領代に任じ、定頼は細川晴元・三好長慶と交渉や婚姻を重ねて、畿内政治の一角を占めます。六角氏が「将軍を保護する家」として価値を持った時期です。
領国経営でも定頼は大きな仕事を残しました。観音寺城を石垣で整備し、城下の石寺に楽市を認めた1549年の楽市令は、楽市の史料上の初見とされます。北近江では浅井亮政を攻めて従属させました。1552年に定頼が死去すると子の義賢が継ぎますが、家臣団との対立から六角氏は揺らぎ、1568年の信長の上洛で観音寺城を失うことになります。
年表で追う
- 011495年:誕生
六角高頼の子として生まれる。幼くして出家。
- 021518年:家督相続
兄・氏綱の病により還俗して六角氏を継ぐ。
- 031520年代:将軍義晴を保護
京都を追われた義晴を近江に迎え、幕政を支える。管領代に。
- 041530〜40年代:浅井氏を圧迫
浅井亮政を攻め、北近江を従属させる。
- 051549年:石寺楽市令
観音寺城下の石寺に楽市を認める。
- 061552年:死去
家督は義賢へ。
定頼を読むときに気をつけたいこと
- 「楽市の最初」は史料上の初見という意味。1549年の石寺楽市令は現存する史料で最も早い楽市令で、それ以前に楽市が存在しなかったという意味ではない。
- 管領代は正式な官職ではない。幕府の職制に定められた役職ではなく、管領に代わって政務を担った立場を指す呼び方。
- 定頼の評価は近年の見直しによる。信長に観音寺城を追われた義賢の印象が強く、六角氏は長く過小評価されてきた。滋賀県の調査や展示で定頼の時代が再評価されている。