1495〜1552年 / 六角氏当主・管領代・観音寺城

六角定頼ろっかく さだより

六角定頼は、南近江の守護・六角氏の当主で、六角氏の最盛期を築いた人物です。兄の病により1518年に家督を継ぎ、細川氏の内紛で京都を追われた将軍・足利義晴を近江で保護しました。幕府から管領代かんれいだいに任じられて幕政に関わり、三好長慶みよし ながよし細川晴元ほそかわ はるもとと対等に渡り合います。本拠の観音寺城を石垣で整備し、城下の石寺では楽市の早い例とされる政策を行いました。1552年に死去し、子の六角義賢(定頼の子)が跡を継ぎました。

義賢の父 将軍義晴を近江で保護 観音寺城の整備・石寺の楽市 六角氏の最盛期

要点

  • 兄の代わりに家督を継いだ。当初は出家していたが、兄・氏綱が病で政務を執れず、1518年に還俗して六角氏を継いだ。
  • 将軍を近江で支えた。細川高国ほそかわ たかくにと晴元の争いで京都を追われた将軍足利義晴を近江に迎え、幕府を支えた。管領代に任じられ、幕政に発言力を持った。
  • 畿内の有力者と対等だった。細川晴元・三好長慶との交渉や婚姻を通じて、六角氏は畿内政治の一角を占めた。
  • 観音寺城を整えた。石垣を多用した大規模な山城に整備し、城下の石寺に楽市を認めた。1549年の楽市令は楽市の史料上の初見とされる。
  • 北近江の浅井氏を圧迫した。浅井亮政を攻めて小谷城を一時追い、浅井氏を従属させた。
人物

何をした人物か

定頼は六角高頼の子として生まれ、幼くして京都の相国寺に入っていました。兄の氏綱が家督を継ぎましたが病弱で政務を執れず、1518年、定頼は還俗して六角氏の当主となります。父・高頼は幕府の六角征伐を二度にわたって耐え抜いた人物で、定頼はその六角氏を守護大名から畿内の有力者へ押し上げました。

1520年代、細川高国と細川晴元の争いで幕府は混乱し、将軍足利義晴は京都を追われて近江に逃れます。定頼は義晴を保護し、幕府の政務を近江から支えました。幕府は定頼を管領代に任じ、定頼は細川晴元・三好長慶と交渉や婚姻を重ねて、畿内政治の一角を占めます。六角氏が「将軍を保護する家」として価値を持った時期です。

領国経営でも定頼は大きな仕事を残しました。観音寺城を石垣で整備し、城下の石寺に楽市を認めた1549年の楽市令は、楽市の史料上の初見とされます。北近江では浅井亮政を攻めて従属させました。1552年に定頼が死去すると子の義賢が継ぎますが、家臣団との対立から六角氏は揺らぎ、1568年の信長の上洛で観音寺城を失うことになります。

年表

年表で追う

  1. 011495年:誕生

    六角高頼の子として生まれる。幼くして出家。

  2. 021518年:家督相続

    兄・氏綱の病により還俗して六角氏を継ぐ。

  3. 031520年代:将軍義晴を保護

    京都を追われた義晴を近江に迎え、幕政を支える。管領代に。

  4. 041530〜40年代:浅井氏を圧迫

    浅井亮政を攻め、北近江を従属させる。

  5. 051549年:石寺楽市令

    観音寺城下の石寺に楽市を認める。

  6. 061552年:死去

    家督は義賢へ。

注意点

定頼を読むときに気をつけたいこと

  • 「楽市の最初」は史料上の初見という意味。1549年の石寺楽市令は現存する史料で最も早い楽市令で、それ以前に楽市が存在しなかったという意味ではない。
  • 管領代は正式な官職ではない。幕府の職制に定められた役職ではなく、管領に代わって政務を担った立場を指す呼び方。
  • 定頼の評価は近年の見直しによる。信長に観音寺城を追われた義賢の印象が強く、六角氏は長く過小評価されてきた。滋賀県の調査や展示で定頼の時代が再評価されている。
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参考にした資料