京都の兵乱を避け、近江に身を寄せた将軍
義晴の時代の京都では戦いが続きました。1527年には、義晴・細川高国の側についた若狭の武田元光の軍勢が、京都の西七条川勝寺で三好・柳本の軍勢と戦っています。翌1528年の秋、義晴は京都の兵乱を避け、近江国朽木(今の滋賀県高島市)の朽木稙綱を頼って移り、1531年まで3年間とどまりました。
足利義晴
12代将軍。京都で戦いが続くなか、近江・越前・若狭の武士の力を頼りました。
細川高国
義晴の側に立った管領です。朽木の岩神館の庭園は、高国が作ったと伝えられています。
朽木稙綱
近江朽木の武士。京都を避けてきた義晴のために岩神館を造り、迎え入れました。
岩神館の跡には、のちに朽木氏が秀隣寺を建てました。館の庭園は、いまは興聖寺の敷地にある国の名勝「旧秀隣寺庭園」として残っています。
義輝へ続く将軍家
義晴の子の義輝は、1546年12月、父の義晴が三好長慶に追われて近江坂本に滞在していたときに、その地で元服し、13代将軍となりました。義輝もまた、細川晴元・三好長慶との対立のため、たびたび京都を離れています。
2月、義晴・細川高国の側についた武田元光の軍勢が、京都の西七条で三好・柳本の軍勢と戦い、多くの家臣を失います。10月には越前の軍勢が義晴に従って京都へ入りました。
5月、越前朝倉氏の孝景(十代)を将軍の御供衆に加えます。秋には京都の兵乱を避け、近江朽木の朽木稙綱のもとへ身を寄せました。
稙綱が造った岩神館での3年間の滞在が、この年まで続きました。
義晴は、越前朝倉氏の孝景と若狭の武田信豊に、京都へ警護の兵を送るよう命じます。
12月、三好長慶に追われて近江坂本に滞在していた義晴のもとで、子の義輝が元服し、13代将軍となりました。
義晴は、京都の外にいる武士の力を借りながら動いた将軍です。 朽木に残る庭園や、越前・若狭の記録に残る命令をたどると、将軍が近江・越前・若狭の武士とどう結びついていたかが見えてきます。
参考にした資料
- 高島市「興聖寺(こうしょうじ)・旧秀隣寺庭園」(1528年秋に12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避けて朽木稙綱を頼ったこと、稙綱が造った岩神館と1531年までの3年間の滞在、庭園を細川高国が作ったという伝え、秀隣寺の建立と国の名勝としての現状)
- 福井県文書館「福井県史年表(1521年~1540年)」(1527年の川勝寺の戦いと越前衆の入京、1528年に越前朝倉氏の孝景(十代)を御供衆に加えたこと、1536年の天文法華の乱で孝景・武田信豊に警護の兵を命じたこと)
- 国立国会図書館レファレンス協同データベース「足利義輝について知りたい。」(義輝が義晴の子であること、1546年12月に三好長慶に追われて近江坂本にいた義晴のもとで義輝が元服・将軍任官したこと、細川晴元・三好長慶との対立、松永久秀らに攻められた最期)
- 国立公文書館「歴史と物語:後鑑(室町幕府の歴史書)」(室町幕府の歴史を記した『後鑑』の説明のなかで、最後の将軍を足利義昭としていること)
義晴の時代の京都政治は、複数の有力者の対立が重なります。このページでは、京都を離れた滞在と、子の義輝への継承を中心に整理しました。
