人物ページ / 京都の人物 / 室町幕府12代将軍 / 義輝の父

足利義晴あしかが よしはる

室町幕府12代将軍。京都の兵乱を避けて近江の朽木くつきに3年間身を寄せた将軍で、子の義輝は、義晴が近江坂本に滞在していたときに13代将軍となりました。

12代将軍細川高国ほそかわ たかくに近江朽木義輝の父
足利義晴の肖像
足利義晴像 / Wikimedia Commons / Public domain

京都の兵乱を避け、近江に身を寄せた将軍

義晴の時代の京都では戦いが続きました。1527年には、義晴・細川高国の側についた若狭の武田元光の軍勢が、京都の西七条川勝寺で三好・柳本の軍勢と戦っています。翌1528年の秋、義晴は京都の兵乱を避け、近江国朽木(今の滋賀県高島市)の朽木稙綱たねつなを頼って移り、1531年まで3年間とどまりました。

足利義晴

12代将軍。京都で戦いが続くなか、近江・越前・若狭の武士の力を頼りました。

細川高国

義晴の側に立った管領です。朽木の岩神館の庭園は、高国が作ったと伝えられています。

朽木稙綱

近江朽木の武士。京都を避けてきた義晴のために岩神館を造り、迎え入れました。

岩神館の跡には、のちに朽木氏が秀隣寺を建てました。館の庭園は、いまは興聖寺の敷地にある国の名勝「旧秀隣寺庭園」として残っています。

義輝へ続く将軍家

義晴の子の義輝は、1546年12月、父の義晴が三好長慶みよし ながよしに追われて近江坂本に滞在していたときに、その地で元服し、13代将軍となりました。義輝もまた、細川晴元ほそかわ はるもと・三好長慶との対立のため、たびたび京都を離れています。

1527年
川勝寺の戦い

2月、義晴・細川高国の側についた武田元光の軍勢が、京都の西七条で三好・柳本の軍勢と戦い、多くの家臣を失います。10月には越前の軍勢が義晴に従って京都へ入りました。

1528年
朽木へ移る

5月、越前朝倉氏の孝景(十代)を将軍の御供衆おともしゅうに加えます。秋には京都の兵乱を避け、近江朽木の朽木稙綱のもとへ身を寄せました。

1531年
朽木での滞在が終わる

稙綱が造った岩神館での3年間の滞在が、この年まで続きました。

1536年
天文法華の乱

義晴は、越前朝倉氏の孝景と若狭の武田信豊に、京都へ警護の兵を送るよう命じます。

1546年
義輝が将軍となる

12月、三好長慶に追われて近江坂本に滞在していた義晴のもとで、子の義輝が元服し、13代将軍となりました。

義晴は、京都の外にいる武士の力を借りながら動いた将軍です。 朽木に残る庭園や、越前・若狭の記録に残る命令をたどると、将軍が近江・越前・若狭の武士とどう結びついていたかが見えてきます。

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参考にした資料

義晴の時代の京都政治は、複数の有力者の対立が重なります。このページでは、京都を離れた滞在と、子の義輝への継承を中心に整理しました。