要点
- 法華宗は、京都の町衆の宗教だった。1294年に日像が京都へ伝えて以来、法華宗は商工業者の町衆、特に土倉・酒屋を中核に広がり、応仁の乱の前後には洛中に本山だけで21か寺を数えた。京都は「題目の巷」と呼ばれるほどで、信仰は町の自治・自衛と結びつき、門徒が武装して戦う法華一揆に発展した。土一揆や大名の軍勢から町を守ったのは、この法華一揆だった。
- 発端は一向一揆への防衛、引き金は宗論だった。1532年、一向一揆が京都へ攻め込むという噂が広がると、法華一揆は管領細川晴元と結んでこれを防ぎ、山科本願寺を焼き討ちした。以後数年、京都の町は法華一揆が事実上守る状態が続く。1536年2月、延暦寺の僧が法華門徒との宗論に敗れる事件(松本問答)が起き、長年の対立が戦争に発展した。
- 被害は応仁の乱を上回り、法華宗は堺へ追われた。1536年7月、延暦寺は六角定頼ら近江の軍勢とともに洛中へ乱入。法華寺院と町衆が集住する下京は全焼し、上京も3分の1が焼けた。兵火の被害は応仁の乱を上回ったとされる。21本山は堺へ逃れ、1542年に勅許でようやく15本山が京都へ戻った。その一つが、のちに信長最期の地となる本能寺になる。
「題目の巷」から堺退去、帰洛まで
- 011294年、日像が京都へ伝える
日蓮の孫弟子にあたる日像が京都で布教を始め、法華宗は多くの流派を生みながら町衆へ浸透した。応仁の乱の前後には洛中の本山が21か寺に達し、「南無妙法蓮華経」の題目が町に響く「題目の巷」と呼ばれた。
- 02室町後期、武装する門徒
法華宗は信者以外から施しを受けず与えもしない不受不施の立場を取り、延暦寺からの攻撃も受けて武装を進めた。旗を掲げ題目を唱えて京内を巡回する「打ちまわり」も行われ、町の自衛と一体の法華一揆が形成されていく。
- 031532年、山科本願寺の焼き討ち
一向一揆の入洛の噂に対し、法華一揆は細川晴元と同盟してこれを迎え撃ち、山科本願寺を焼いた。本願寺は本山を大坂の石山へ移す。ここから数年、京都の防衛と自治は法華一揆が事実上担った。
- 041536年2月、松本問答
延暦寺西塔の僧・華王房が、法華門徒の松本久吉との宗論に敗れた。面目を潰された延暦寺は法華宗の追討を決め、六角氏や畿内の大寺院を味方に付けて開戦の準備を進めた。
- 051536年7月、洛中の焼き討ち
延暦寺・六角連合軍は松ヶ崎城を襲撃したのち、三条口・四条口から洛中へ乱入した。町衆は総力で戦ったが、下京は全焼、上京も3分の1が焼失。21本山はすべて焼かれ、生き残った門徒と寺は堺へ逃れた。
- 061542年、勅許による帰洛
京都へ戻る請願が続けられた結果、天皇の許しが下り、15本山が帰洛を果たした。のちに秀吉の都市改造で法華寺院の多くは寺町・寺之内へ集められ、その並びは今の京都にも残っている。
「応仁の乱を超える被害」は本当か
語られ方 知られざる京都の大戦争
応仁の乱や本能寺の変に比べて、天文法華の乱の知名度は低い。しかし京都市の都市史資料は、下京の全焼と上京の3分の1の焼失という被害の規模を「応仁・文明の乱を上回る」と整理している。京都の町にとっては、教科書で有名な大乱より深い傷を残した戦争だった。
史料と現地 確かめられること
乱の経過と被害、21本山から15本山への減少、1542年の勅許帰洛は、京都市の都市史資料と上京区の資料(天文初年の法華宗本山の分布図)で確かめられる。妙顕寺・妙覚寺・本法寺など再興された本山は今も上京の寺之内周辺に建ち並び、寺の配置そのものが乱と再建、秀吉の都市改造の痕跡になっている。
天文法華の乱から、何が見えるのか
- 戦国の京都を実際に動かしていたのは、町衆だったと分かる。将軍が不在がちの京都で、土一揆を退け、一向一揆を防ぎ、町を守っていたのは武装した町衆の法華一揆だった。応仁の乱後の京都の復興も自治も、大名ではなく商工業者の力で支えられていたことが、この乱の前史から見えてくる。
- 宗教勢力どうしの潰し合いの、京都での頂点になる。法華一揆が山科本願寺を焼き、その法華一揆を延暦寺が焼き、35年後にはその延暦寺を信長が焼く。比叡山焼き討ちは突然の暴挙ではなく、京都周辺で繰り返されてきた宗教戦争の系譜の上にあることが、この乱を知るとはっきりする。
- 「本能寺」の姿も、この乱の延長にある。本能寺は21本山の一つとしてこの乱で焼かれ、再建された法華寺院だった。法華寺院は迫害の歴史から堀や土塁を備える伝統があり、信長が京都の宿所として本能寺を使ったのも、町中にありながら城構えを持つ寺だったからになる。1582年のあの夜の舞台は、この乱の歴史が用意していた。