場所ページ / 京都・四条西洞院(旧地)→寺町御池(現在)

本能寺とは(寺)

本能寺ほんのうじは、京都の法華宗の大寺で、織田信長おだ のぶながが京での定宿にしていた寺です。1582年6月2日未明、明智光秀あけち みつひでに襲われた「本能寺の変」の舞台ですが、実は変が起きた本能寺は、今の本能寺と場所が違います。当時の本能寺は四条西洞院しじょうにしのとういんにあり、現在の寺町御池(京都市役所の近く)へは、変のあとに秀吉の命で移されました。このページでは「変の舞台としての本能寺」を、当時の姿と現在の姿の両方から整理します。

変の舞台は四条西洞院 堀をめぐらせた城構え 変のあと秀吉が移転 現在地に信長公廟

要点

  • 変の本能寺は、今の本能寺の場所にはない。京都市の石碑の解説によれば、変当時の本能寺は北を六角通、南を蛸薬師通、東を西洞院通、西を油小路通に囲まれた一角にあった。現在の四条西洞院のあたりで、「本能寺址」の石碑(1915年建立)が旧地を示している。
  • 寺なのに、城のような構えだった。当時の本能寺は広い寺域に堀をめぐらせた堅固な構えで、宿舎と防御を兼ねられた。信長が京の定宿にしたのは、この構えと、種子島(鉄砲・火薬)につながる法華宗の交易ネットワークが理由とされる。
  • 1582年6月2日、信長はここで自害した。供廻りわずかの信長は、1万3千の明智軍に囲まれて奮戦ののち、燃える寺内で自害した。遺体は見つからなかったと伝わる。
  • 息子の信忠は妙覚寺から二条御所へ。近くの妙覚寺に泊まっていた嫡男・信忠は、本能寺の救援をあきらめ、より守りやすい二条御所に移って戦い、力尽きて自害した。織田政権の当主と後継者が、同じ朝に京都で死んだ。
  • 寺は変のあと、秀吉の命で今の場所へ。焼けた本能寺は寺町御池の現在地に移転・再建された。境内には信長公廟と供養塔があり、旧地の石碑とあわせて「二つの本能寺」を歩ける。
ことば

変の朝の京都を、場所で整理する

何があった場所かその朝
本能寺(四条西洞院)信長の定宿。堀をめぐらせた法華宗の大寺未明に明智軍に包囲され、信長が自害。寺は炎上した
妙覚寺信忠の宿舎。本能寺の近くにあった法華宗の寺信忠は本能寺へ向かおうとしたが間に合わないと知り、二条御所へ移る
二条御所誠仁親王(皇太子)の御所。堀と塀のある構え信忠らが立てこもって戦い、自害。親王は退去して無事だった
現在の本能寺(寺町御池)変のあと秀吉の命で移転・再建された現在地―(境内に信長公廟・供養塔がある)

本能寺は1415年に「本応寺」として創建され、1433年に四条西洞院へ移って本能寺と改称した(京都市の石碑解説による)。変の舞台になったのはこの四条西洞院の伽藍で、移転後の現在地とは約1キロ離れている。

検証

「是非に及ばず」は何を意味したのか

伝承 語られてきた場面

「敵は明智か」と問うた信長が「是非に及ばず」とつぶやいた——この場面はドラマで繰り返し描かれ、「あきらめの言葉」として受け取られることが多い。森蘭丸ら小姓衆が防戦する中、信長が弓と槍で戦った描写も定番になっている。

史料 確かめられること

「是非に及ばず」は、信長の家臣・太田牛一が書いた「信長公記」に記された言葉。文脈からは「あれこれ言っても仕方ない(すぐ戦うのみ)」という即断の言葉と読む解釈が有力で、あきらめではなく、状況を一瞬で受け入れて行動に移る信長らしさを伝える記述とされる。牛一は変の場にいないため、生き延びた女房衆らからの聞き取りに基づくと考えられている。

どう読むか

本能寺という場所から、変を読む

  • 信長は「無防備」だったわけではない。堀のある城構えの寺に泊まるのは、当時としては十分な用心だった。想定外だったのは、洛中に1万3千の軍が現れること——つまり味方の重臣が軍を丸ごと向けてくることだけだった。
  • 京都に「信長の城」がなかったことが本質。信長の本拠は安土で、京都には宿舎しか持たなかった。政権の中心人物が首都で無防備になる瞬間を、光秀は正確に突いた。のちの秀吉(聚楽第)や家康(二条城)が京都に城を構えたのは、この教訓と無関係ではない。
  • 寺の移転が、記憶の場所を二つにした。「変の場所」(四条西洞院の石碑)と「信長を弔う場所」(現在の本能寺の廟)が分かれて残ったことで、京都では事件の現場と鎮魂の場を別々に歩ける。場所の歴史としても珍しい形になっている。

変の全体像は本能寺の変、光秀の出撃拠点は丹波亀山城で整理しています。

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参考にした資料