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二条城にじょうじょう

二条城にじょうじょうは、京都市中京区にある平城で、1603年に徳川家康が京都での宿所と朝廷への備えとして築きました。「二条城」と呼ばれる城は戦国期にもいくつかあり、織田信長おだ のぶながが将軍足利義昭のために築いた城(1569年)や、信長の子・信忠が本能寺の変で自害した二条新御所は、現在の二条城とは場所が違います。家康の二条城は1626年に徳川家光とくがわ いえみつが大改修し、後水尾天皇ごみずのおてんのうの行幸を迎えました。1867年には15代慶喜がここで大政奉還を表明し、江戸幕府の始まりと終わりの両方の舞台となりました。世界遺産です。

1603年 徳川家康 大政奉還の舞台 世界遺産

要点

  • 「二条城」は一つではない。室町将軍の二条御所、信長が義昭に築いた二条城、信忠が死んだ二条新御所は、いずれも現在の二条城とは別の場所にあった。
  • 1603年、家康が築いた。征夷大将軍に任じられた家康が、京都での宿所と朝廷・西国への備えとして築いた。
  • 1626年、家光が大改修した。後水尾天皇の行幸を迎えるため、秀忠・家光が二の丸御殿を整え、本丸に伏見城の天守を移した。
  • 将軍が使ったのは数回だけ。家光の上洛以後、将軍が二条城に入ったのは1863年の家茂まで約230年なかった。
  • 大政奉還の舞台。1867年、徳川慶喜が二の丸御殿で諸藩に大政奉還を表明した。江戸幕府の終わりの場所。
歴史

二条城は、どう使われてきたのか

  1. 01室町時代、将軍の二条御所

    足利義輝あしかが よしてるら室町将軍は二条周辺に御所を置いた。義輝は1565年にここで三好三人衆らに殺された(永禄の変)。

  2. 021569年、信長が義昭のために築く

    信長は将軍義昭の御所として、二条に堀と石垣を持つ城を築いた。義昭追放後は解体され、誠仁親王の御所(二条新御所)となった。

  3. 031582年、信忠が二条新御所で自害

    本能寺の変で信長の嫡男・信忠は二条新御所に立てこもり、明智軍と戦って自害した。この御所も現在の二条城とは別の場所。

  4. 041603年、家康が現在の二条城を築く

    1601年に着工し、1603年3月に家康が入城して将軍就任の祝賀を行った。二の丸御殿の原形はこのときのもの。

  5. 051611年、家康と秀頼の会見

    家康は二条城で豊臣秀頼とよとみ ひでよりと会見した。秀頼の成長を見た家康が豊臣家への警戒を強めたとする話が伝わる。

  6. 061626年、家光の大改修と行幸

    後水尾天皇の行幸を迎えるため、城域を西へ広げて本丸を築き、伏見城の天守を移した。二の丸御殿の障壁画は狩野探幽らが描いた。

  7. 071867年、大政奉還

    15代慶喜が二の丸御殿大広間で諸藩の重臣に大政奉還を表明した。明治以後は離宮を経て京都市に下賜され、1994年に世界遺産となった。

どう読むか

二条城を読むときの三つの視点

  • 戦国の二条城と、今の二条城を分ける。信長・義昭・信忠に関わる「二条城」は別の建物。戦国の話を現在の城跡に重ねないこと。
  • 朝廷の隣に将軍の城を置いた。御所のすぐ近くに堀と天守のある城を築くことで、将軍の力を朝廷と京都の人々に見せた。
  • 幕府の始まりと終わりの場所。1603年の将軍就任祝賀と1867年の大政奉還が同じ城で行われた。江戸幕府の枠を一つの場所で見られる。

二条城は戦国の城としては「信長が義昭に築いた城」と「信忠が死んだ御所」の記憶が重なりますが、どちらも現存しません。現在の城は江戸時代の建築で、戦国の終わりに家康が京都に置いた拠点として読みます。

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参考にした資料