要点
二条城は、どう使われてきたのか
- 01室町時代、将軍の二条御所
足利義輝ら室町将軍は二条周辺に御所を置いた。義輝は1565年にここで三好三人衆らに殺された(永禄の変)。
- 021569年、信長が義昭のために築く
信長は将軍義昭の御所として、二条に堀と石垣を持つ城を築いた。義昭追放後は解体され、誠仁親王の御所(二条新御所)となった。
- 031582年、信忠が二条新御所で自害
本能寺の変で信長の嫡男・信忠は二条新御所に立てこもり、明智軍と戦って自害した。この御所も現在の二条城とは別の場所。
- 041603年、家康が現在の二条城を築く
1601年に着工し、1603年3月に家康が入城して将軍就任の祝賀を行った。二の丸御殿の原形はこのときのもの。
- 051611年、家康と秀頼の会見
- 061626年、家光の大改修と行幸
後水尾天皇の行幸を迎えるため、城域を西へ広げて本丸を築き、伏見城の天守を移した。二の丸御殿の障壁画は狩野探幽らが描いた。
- 071867年、大政奉還
15代慶喜が二の丸御殿大広間で諸藩の重臣に大政奉還を表明した。明治以後は離宮を経て京都市に下賜され、1994年に世界遺産となった。
二条城を読むときの三つの視点
- 戦国の二条城と、今の二条城を分ける。信長・義昭・信忠に関わる「二条城」は別の建物。戦国の話を現在の城跡に重ねないこと。
- 朝廷の隣に将軍の城を置いた。御所のすぐ近くに堀と天守のある城を築くことで、将軍の力を朝廷と京都の人々に見せた。
- 幕府の始まりと終わりの場所。1603年の将軍就任祝賀と1867年の大政奉還が同じ城で行われた。江戸幕府の枠を一つの場所で見られる。
二条城は戦国の城としては「信長が義昭に築いた城」と「信忠が死んだ御所」の記憶が重なりますが、どちらも現存しません。現在の城は江戸時代の建築で、戦国の終わりに家康が京都に置いた拠点として読みます。