勢力ページ / 信長より先に畿内を制した家

三好氏みよしし

三好氏(三好家)は、阿波国(徳島県)を本拠とし、戦国時代の半ばに畿内を制した一族です。もとは阿波守護・細川氏の重臣でしたが、主家の細川氏をしのいで力を伸ばし、三好長慶の代には将軍足利義輝を京都から追い、畿内と四国にまたがる政権を築きました。織田信長おだ のぶながより20年ほど早く「天下」を動かしたことから、「最初の天下人」と呼ばれることもあります。しかし長慶の死後、一族と家臣の争いで崩れ、1568年の信長の上洛で畿内から退きました。

阿波・細川氏の重臣から 長慶が畿内を制す 飯盛城・芥川山城 長慶の死後に崩壊
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要点

  • 出発点は阿波の細川氏の重臣。信濃の小笠原氏の流れをくむとされ、鎌倉期に阿波へ移った。室町時代には阿波守護・細川氏に仕え、その有力な家臣となった。
  • 三代かけて畿内へ進出した。三好之長が細川政元ほそかわ まさもとのもとで京都へ、三好元長が細川晴元を擁立し、いずれも主家との対立で命を落とした。その経験の上に長慶が立つ。
  • 長慶が主家を倒し、将軍を追った。1549年に細川晴元を破って畿内の実権を握り、将軍足利義輝も一時京都から追放。畿内・四国にまたがる三好政権を築いた。
  • 「最初の天下人」と呼ばれる。幕府や守護の枠の外で畿内を治めた点が、信長に先立つ政権として近年評価されている。
  • 長慶の死後、内部から崩れた。三好三人衆と松永久秀の対立、将軍義輝の殺害を経て、1568年の信長上洛で畿内を失い、1573年に宗家は滅びた。
家のはじまり

三好氏は、どうやって畿内へ出てきたのか

  1. 01阿波の細川氏の重臣

    三好氏は室町時代、阿波守護の細川氏に仕える有力な家臣でした。細川氏は幕府の管領を出す名門で、三好氏はその実力部隊として畿内の政争に関わるようになります。

  2. 02之長:京都で力を振るい、敗れる

    三好之長(長慶の曽祖父)は管領・細川政元の配下として京都で活動し、政元の死後の細川家の内紛で力を振るいましたが、1520年に敗れて処刑されました。

  3. 03元長:晴元を擁立し、主家に討たれる

    三好元長(長慶の父)は細川晴元を擁して畿内を制圧しましたが、晴元と対立し、1532年に晴元が動かした一向一揆によって堺で自害しました。長慶はこのとき10歳でした。

三好氏は二代続けて主家の細川氏との関係で当主を失っています。長慶の政権は、この「主家に殺された家」の再起として始まりました。主家・細川氏の全体像は細川氏で整理しています。

長慶の時代

長慶は、何をもって「天下人」と呼ばれるのか

  • 主家を倒した。1549年の江口の戦いで細川晴元と三好政長を破り、晴元と将軍義輝を京都から追った。畿内の実権は三好氏に移った。
  • 幕府を使わずに畿内を治めた。将軍不在のまま京都と畿内の政務を行い、のちに義輝を帰京させたあとも実権は手放さなかった。守護や管領という室町の枠組みの外で政治を行った点が、信長に先立つ。
  • 領国は畿内と四国に広がった。摂津の芥川山城、のちに河内の飯盛城を本拠とし、弟たちを阿波・讃岐・淡路に配して四国を押さえた。
  • 文化の担い手でもあった。連歌や茶の湯に通じ、堺の商人や文化人との結びつきが深かった。飯盛城では連歌会が開かれ、キリスト教の布教も許した。

長慶の歩みは三好長慶みよし ながよしのページで、本拠は飯盛城のページで詳しく読めます。

なぜ崩れたか

長慶の死後、三好氏はどう崩れたのか

  1. 01後継者を相次いで失った

    長慶の晩年、弟の十河一存そごう かずまさ・三好実休、嫡男の三好義興みよし よしおきが相次いで死去。長慶は甥の三好義継を養子に迎えましたが、1564年に自らも死去しました。

  2. 021565年:将軍義輝の殺害

    三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀は、将軍足利義輝を襲って殺害しました。幕府の権威を正面から否定した事件ですが、これが三好氏を「将軍を殺した家」として孤立させます。

  3. 03三人衆と久秀の内戦

    義輝殺害ののち、三人衆と松永久秀が対立して畿内で戦い続けました。1567年には東大寺大仏殿が戦火で焼けています。

  4. 041568〜73年:信長の上洛と滅亡

    足利義昭あしかが よしあきを奉じた織田信長が上洛すると、三好三人衆は畿内を追われました。義継は信長に従ったのち離反し、1573年に若江城で自害。三好宗家は滅びました。阿波の三好氏も1577年ごろに長宗我部氏に圧迫されて衰えます。

一族の一部はその後も諸大名に仕え、江戸時代には旗本として三好の名を伝えた家もあります。

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三好氏をめぐる人物

三好氏についてのよくある疑問

三好長慶は本当に「最初の天下人」なのか?

「天下」という言葉は当時、京都を中心とする畿内を指すことが多く、その畿内を幕府や管領の枠の外で実際に治めたのが長慶でした。この意味で、信長に先立つ天下人とする見方が近年広まっています。ただし長慶は将軍を殺しておらず、幕府そのものを否定したわけでもありません。室町の秩序を壊した人物というより、その秩序の中で実権だけを握った人物として読むのが適切です。

三好氏はなぜ信長のように天下統一へ進めなかったのか?

一つの理由には絞れませんが、長慶の晩年に弟や嫡男が相次いで死去して後継者を失ったこと、長慶の死後に一族と家臣団が分裂したこと、将軍殺害で諸大名から孤立したことが重なったと考えられます。また、三好氏の支配は畿内の有力者をまとめる形で、領国を一元的に再編する段階には進んでいなかったという見方もあります。

三好三人衆とは誰のことか?

長慶の死後に三好氏の実権を握った三好長逸・三好政康・岩成友通の三人を指します。一族の長老格である長逸を中心に、幼い当主・義継を支える形で政権を運営しましたが、同じく長慶の重臣だった松永久秀と対立し、畿内で戦い続けました。この内戦が三好氏の力を削ぎ、信長の上洛を容易にしました。

三好氏はなぜあまり知られていないのか?

信長・秀吉・家康の物語が江戸時代以降に広く語られるなかで、その前に畿内を治めた三好氏は「信長に倒された勢力」として脇に置かれてきました。また将軍殺害や東大寺大仏殿の焼失といった出来事が悪役の印象を強めた面もあります。近年は大東市や徳島県などで再評価が進み、飯盛城跡は国の史跡に指定されています。

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参考にした資料