人物ページ / 大和・畿内きないの実力者

松永久秀まつなが ひさひで

三好長慶ながよしのもとで力を伸ばし、大和と京都周辺の政治・軍事に深く関わった武将です。三好政権の分裂、将軍暗殺、信長との対立までをたどると、畿内の複雑な勢力関係が見えてきます。

松永久秀とは

久秀は三好長慶に仕え、大和を中心に勢力を築きました。寺社や国人が大きな力を持つ大和では、城と軍事力だけでなく、地域の有力者との交渉も欠かせませんでした。久秀は三好政権を支えながら、自らも畿内の有力者となります。

三好政権の分裂の中で

長慶を支える

長慶の政権下で、久秀は大和・京都周辺の軍事と政治を担いました。三好氏の勢力が広がる過程で、重要な役割を果たします。

三好三人衆との対立

長慶の死後は、三好義継をめぐって三好三人衆と久秀が対立しました。対立は畿内の政治を不安定にし、将軍をめぐる争いにも直結します。

信長との関係

信長が上洛した後、久秀は一時織田方に加わります。しかしのちに再び対立し、1577年に信貴山城しぎさんじょうで織田軍に敗れて生涯を終えました。

永禄の変との関係

1565年の永禄の変では、足利義輝あしかが よしてるが三好三人衆らに襲撃されました。久秀やその子・久通の関与をめぐっては史料の読み方に議論があり、久秀だけを事件の首謀者として単純に捉えないことが大切です。事件は、三好政権内部の対立が将軍の命運を左右したことを示します。

「梟雄」だけでは見えない

後世の逸話で語られやすい人物ですが、久秀は三好政権・大和の寺社勢力・将軍家・織田政権という複数の関係の間で動いた武将でした。

三好家臣から大和の実力者へ

1540年代
三好長慶みよし ながよしのもとで文書発給や軍事を担い、畿内政治の実務に入ります。
1550年代
大和へ進出し、多聞山城を拠点に筒井氏らと争います。
1564以後
長慶の死後、三好三人衆との対立が激化し、京都・大和を巻き込む内戦になります。
1568
信長の上洛後に降り、大和での地位を認められます。
1577
再び信長に背き、信貴山城で包囲されて死去します。

「戦国の三悪人」という物語をほどく

久秀は、将軍殺害、主家への背反、東大寺大仏殿の焼失を一人で引き起こした悪人として語られてきました。しかし、永禄の変で御所を攻めた中心勢力と久秀本人の位置、1567年の東大寺大仏殿焼失に至る戦闘の責任は、それぞれ分けて確かめる必要があります。畿内の内戦を一人の性格で説明することはできません。

三好長慶みよし ながよし

久秀を引き上げた主君。久秀は長慶政権の行政・軍事を担い、長慶の死後に独自勢力化します。

筒井順慶つつい じゅんけい

大和支配を争った相手です。信長上洛後も両者の競争が続き、久秀の二度目の反乱へつながります。

織田信長おだ のぶなが

久秀は一度は降伏して大和で活動を続けましたが、1573年と1577年に反旗を翻します。

平蜘蛛の茶釜

信貴山城で名物茶器とともに爆死したという有名な話は、後世に劇的に語られた部分を含みます。茶の湯に通じたことと最期の演出は分けて扱います。

久秀の重要性は、悪名の強さではなく、身分の高い守護ではなかった人物が三好政権の実務を通じて台頭し、城と都市を押さえて大和の支配者へ近づいた点にあります。

注意点

久秀を読むときに気をつけたいこと

  • 「三悪事」(将軍殺し・主家乗っ取り・大仏焼き討ち)は、近年すべて見直されている。永禄の変の当日、久秀は大和にいたとされ、三好長慶の死後に三好家を乗っ取ったという見方も後世の記録の影響が大きい。東大寺大仏殿の焼失は三好三人衆との戦闘中の火災で、意図的な焼き討ちとは言い切れない。
  • 「平蜘蛛の茶釜とともに爆死」は後世の脚色。信貴山城で自害したことは確かだが、茶釜に火薬を詰めて爆死したという話は江戸時代の記録による。
  • 信長に二度背いた理由は、史料で一つに絞れない。信長包囲網への加担(1573年)と信貴山城での挙兵(1577年)の動機は、大和支配をめぐる筒井順慶じゅんけいとの対立、信長の家臣団内での立場など複数の要因が考えられる。

参考にした資料