信長包囲網とは?
- 信長に対抗した勢力をまとめて呼ぶ言葉。浅井・朝倉・本願寺・武田・上杉・毛利・足利義昭などが含まれるが、一つの軍団ではない。
- 三つの波で見る。1570年ごろの浅井・朝倉・本願寺、1572〜73年の武田信玄、1576年以降の毛利・上杉・本願寺。時期によって顔ぶれが違う。
- 義昭の呼びかけが結び目。将軍義昭が各勢力に信長打倒を呼びかけたが、各勢力はそれぞれの事情で動いた。
- 信玄の死と義昭追放が節目。1573年に信玄が病死し、義昭が追放され、浅井・朝倉が滅んだことで、最初の包囲網は崩れた。
- 「包囲網」は後世の整理。当時の人々がこの言葉を使ったわけではなく、信長の敵対勢力を後から一つの枠で呼んだもの。
包囲網を分かりやすく読むコツ
| 一枚の地図にしない | 「信長の敵」が同じ時期に同じ温度で動いていたわけではありません。まず年代を置き、どの対立がその時点で強かったのかを見ます。 |
|---|---|
| 将軍との関係を見る | 足利義昭は、信長を京都へ招く側でもあり、のちには対立する側にもなります。信長と義昭の関係の変化が、各地の勢力を見る鍵になります。 |
| 地方ごとの事情を見る | 浅井・朝倉は近江・越前、武田は甲斐・信濃から三河へ、上杉は越後・北陸、毛利は中国地方というように、戦う場所と事情が異なります。 |
| 信長の勝ちで終わらせない | 信長が対立勢力を抑えていく過程で、家臣たちの役割も大きくなります。明智光秀、羽柴秀吉、柴田勝家の担当方面を見ると、本能寺後の勢力図も読みやすくなります。 |
主な勢力を、役割で見る
| 足利義昭 | 信長とともに京都へ入った将軍。のちに信長と対立し、各地の勢力との関係を考える政治上の軸になります。 |
|---|---|
| 浅井長政・朝倉義景 | 北近江と越前の勢力。金ヶ崎、姉川、小谷城へつながる、信長包囲網を理解する最初の入口です。 |
| 武田信玄・武田勝頼 | 甲斐・信濃を基盤とする勢力。三河の徳川家康との戦いを通じて、信長と家康の同盟がどう試されたかを見ることができます。 |
| 上杉謙信 | 越後を基盤に北陸で織田方と向き合います。手取川の戦いは、信長を北陸側から見る入口です。 |
| 毛利輝元と毛利家 | 中国地方の大勢力。信長後半には、羽柴秀吉が中国方面で毛利と対峙しており、本能寺の変直後の秀吉の動きにもつながります。 |
信長を取り巻く対立の流れ
包囲網を三つの波で見る
「誰が敵か」より「何が重なったか」
| 重なるもの | 見るポイント |
|---|---|
| 将軍の権威 | 足利義昭は、信長を京都へ招いた協力者であり、のちには対立の政治的な軸になります。 |
| 近江・越前の地域関係 | 浅井氏と朝倉氏は、婚姻・同盟・領国防衛の関係を持ち、信長の北方への進出とぶつかります。 |
| 宗教勢力と城郭 | 本願寺や比叡山などとの対立は、単なる大名同士の戦いではなく、畿内の交通・拠点・人々の結びつきにも関わります。 |
| 遠方の大名 | 武田・上杉・毛利は、信長と直接の戦いをする局面もあれば、別の地域課題を優先する局面もあります。 |
「包囲網」という言葉は、信長を取り巻く複数の対立を一度に思い出すためには便利です。ただし、同じ作戦会議から生まれた固定的な同盟と決めつけず、地域ごとの事情が時期によって重なったものとして読むのが大切です。
1573年が京都ルートの節目になる
義昭が京都を去る
信長は義昭を追放します。京都市の年表では、この年を室町幕府が滅びる年として整理しています。
朝倉氏が滅亡する
福井県の資料では、1573年8月に義景が自害し、朝倉氏宗家が滅んだとされます。越前と一乗谷の時代も大きく変わります。
浅井氏も終わる
朝倉氏に続き、小谷城の浅井氏も滅びます。信長に対する近江・越前側のまとまった抵抗は大きく後退します。
包囲網が終わるわけではない
初期の枠組みが崩れても、信長と本願寺・毛利・武田などの対立は続きます。1573年は終点ではなく、次の局面への分岐点です。
信長包囲網についてのよくある疑問
信長包囲網は本当に信長を追い詰めたのか?
1572〜73年、武田信玄が西上して三方ヶ原で家康を破り、浅井・朝倉・本願寺が健在だった時期は、信長にとって最も危険な局面でした。ただし各勢力は連携が弱く、信玄の死で一気に崩れました。「追い詰めた」というより、「同時に多くの敵を抱えた」と読むのが適切です。
なぜ各勢力は協力しきれなかったのか?
浅井・朝倉は北近江と越前、本願寺は大坂、武田は甲斐・信濃と、それぞれが離れた場所にあり、同時に動くことが難しかったためです。また朝倉義景は信玄の出陣要請に応じず撤兵するなど、各勢力の事情が優先されました。共通の敵はいても、共通の目的はありませんでした。
武田信玄が死ななければ信長は負けていたのか?
信玄の西上が続いていれば信長はさらに苦しくなっていたとみられますが、信玄が京都まで進めたかどうかは分かりません。信玄の軍は三河で止まっており、信長の本拠を直接攻める段階ではありませんでした。歴史の「もし」として語られることが多い問いです。
第二次・第三次の包囲網とは何か?
1573年に最初の包囲網が崩れたあと、1576年に将軍義昭が毛利氏のもとへ移り、毛利・上杉・本願寺が信長と敵対した時期を第二次、または第三次と呼ぶことがあります。区分は研究者によって異なり、「包囲網」という枠そのものが後世の整理であることに注意が必要です。
10問クイズ
Q1. 信長包囲網は、全員が一度に結んだ単一の同盟?
A. いいえ。時期ごとに異なる事情で対立が重なった動きをまとめた呼び名です。
Q2. 包囲網を考える政治上の軸となる将軍は?
A. 足利義昭です。
Q3. 1570年に信長と大きく対立した北近江・越前の勢力は?
A. 浅井氏と朝倉氏です。
Q4. 浅井・朝倉と信長の対立を見る入口となる1570年の戦いは?
A. 金ヶ崎の戦いと姉川の戦いです。
Q5. 包囲網に関わる宗教勢力の一つは?
A. 本願寺です。
Q7. 義昭が京都を追われた年は?
A. 1573年です。
Q8. 1573年に滅亡した越前の大名は?
A. 朝倉氏です。
Q9. 1573年に室町幕府が終わることは、信長の戦いも全て終わる意味?
A. いいえ。本願寺・毛利・武田などとの対立は続きます。
Q10. 包囲網を読むとき、最も大切な見方は?
A. 誰が敵かだけでなく、各勢力の事情と時期の重なりを見ることです。
参考にした資料
「信長包囲網」は便利な呼び名ですが、各勢力の連携の度合い・時期・目的を同じものとして扱わないことが重要です。