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手取川の戦い

1577年、能登の七尾城を攻略した上杉謙信と、救援のため北陸へ進んだ柴田勝家ら織田軍が加賀で接した戦い。謙信の北陸進出と織田の北陸方面軍が正面からぶつかる一方、夜戦の規模や経過には史料上の議論が残ります。

1577 上杉謙信 織田軍 北陸ルート
手取川の風景
手取川付近 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0

手取川の戦いの要点

手取川の戦いは、上杉謙信が能登へ進み、織田信長側が柴田勝家らを北陸へ送った流れの中で起きたとされる戦いです。信長本人の決戦というより、織田の北陸方面軍と謙信の接点として見るとわかりやすいです。

  • 立場:七尾城をめぐる能登情勢
  • 注目点:謙信 vs 織田北陸方面軍
  • 注意点は「規模や実態に議論がある」
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北陸で上杉と織田が接した戦い

上杉謙信は川中島で武田信玄と争った後、越中を経て能登へ勢力を伸ばしました。1577年9月に七尾城が落ちると、織田方が送った救援軍は目標を失い、加賀方面から撤退に移ります。

そこへ上杉軍が進み、手取川付近で織田軍を破ったと伝わります。上杉の南西進と、越前から加賀・能登を目指す織田の北陸方面軍が交差したことが、この戦いの歴史的な位置づけです。

手取川までの四つの流れ

  1. まず、上杉謙信が能登方面へ進んだ流れを見る。
  2. 次に、織田信長が北陸方面へ柴田勝家らを送った流れを見る。
  3. そのうえで、手取川で織田軍が苦しい撤退をしたとされる点を見る。
  4. 最後に、翌年の謙信死去と御館の乱で流れが変わることを見る。

関係人物

上杉謙信 越後の大名。能登・加賀方面へ進み、織田勢力と北陸で向き合います。手取川は謙信晩年の重要な入口です。
織田信長 中央から勢力を広げる大名。手取川では信長本人の一騎打ちではなく、織田の北陸方面軍を送る側として見るのが自然です。
柴田勝家 織田家の重臣。北陸方面を任され、手取川では織田方の中心人物として押さえたい存在です。
羽柴秀吉 織田方の武将。手取川前後では柴田勝家との不和や離陣が語られやすく、のちの織田家内部の人物関係にもつながります。
前田利家 織田方の武将。勝家の与力として北陸へ進み、のちに能登一国を与えられて七尾城へ入ります。
七尾城 能登の重要な城。ここをめぐる救援要請と落城が、手取川の流れを理解する大きな鍵になります。

なぜ起きた?

出発点は、能登畠山氏の本拠・七尾城です。内紛で弱体化した城を上杉謙信が1576年から攻め、城内の内応もあって翌年9月に攻略しました。救援を求められた織田信長は、柴田勝家を中心に滝川一益、丹羽長秀、前田利家らを北陸へ送りました。

しかし援軍が加賀へ進んだ時点で七尾城はすでに落ちていました。織田軍が撤退を始めると上杉軍が追い、手取川付近で戦闘になったとされます。能登の一城をめぐる救援戦が、上杉・織田両勢力の北陸進出が衝突する戦いへ変わったのです。

ざっくり年表

1575
織田信長が越前の一向一揆を制圧し、柴田勝家を北ノ庄に置きます。越前が織田の北陸進出の拠点になります。
1576
上杉謙信が能登へ侵攻し、能登畠山氏の本拠・七尾城を包囲します。
1577
9月に七尾城が落城。柴田勝家ら織田軍が加賀から撤退する途中、手取川付近で上杉軍と戦ったとされます。
1578
謙信が死去。上杉家では後継をめぐって御館の乱が起き、織田方にとって北陸情勢が変わります。
1580-81
織田方は加賀・能登へ再び勢力を広げます。1581年には前田利家が能登一国を与えられ、七尾城へ入ります。

北陸の覇権争いを四つの視点で見る

謙信から見る

越中を押さえ、能登の七尾城を攻略して加賀へ進みます。関東・信濃だけでなく、日本海側へ勢力を広げた晩年の動きです。

信長から見る

越前を拠点に柴田勝家らを動かし、加賀・能登へ勢力を広げる段階です。信長本人ではなく方面軍が現地戦を担いました。

柴田勝家から見る

北ノ庄を拠点とする北陸方面の司令官です。七尾城救援を目的に進軍し、撤退する織田軍の中心にいました。

その後を見る

翌年に謙信が急死すると上杉家は御館の乱へ入り、織田軍は北陸進出を再開します。手取川の優勢は、地域の支配を決める最終決着にはなりませんでした。

信長本人が負けた戦い?

手取川は「謙信が信長を破った」と語られやすいですが、信長本人が現地で謙信と直接決戦したわけではありません。織田方の北陸方面軍と上杉方が向き合った戦いとして捉える必要があります。

信長本人の直接対決とせず、「織田軍」「北陸方面軍」「柴田勝家」を中心に整理すると、確認できる戦いの構図が見えます。

規模には議論がある

  • 七尾城の落城と織田軍の撤退という前後関係は確認しやすい一方、手取川での戦闘地点、兵数、損害には諸説があります。
  • 増水した川に多数の織田兵が流されたという劇的な経過も、すべてを同時代史料から確定できるわけではありません。
  • 「上杉に逢うては織田も手取川……」という落首は勝敗のイメージを伝えますが、戦闘の全容を示す記録ではありません。
  • 上杉方が織田軍の撤退を追って優勢を得た戦いと見つつ、織田の北陸方面軍が壊滅した決戦とは捉えないのが妥当です。

ここだけ覚える

  • 手取川は、謙信の北陸進出と織田の北陸方面軍が衝突した戦い。
  • 背景には、能登の七尾城と北陸情勢がある。
  • 織田方は柴田勝家ら北陸方面軍として見るとわかりやすい。
  • 信長本人の直接決戦として単純化しすぎない。
  • 謙信の死後、御館の乱で上杉家の流れが大きく変わる。

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5問クイズ

Q1. 手取川の戦いで上杉方の中心として押さえたい人物は?

A. 上杉謙信。

Q2. 織田方の北陸方面で中心として押さえたい武将は?

A. 柴田勝家。

Q3. 手取川の背景として重要な能登の城は?

A. 七尾城。

Q4. 手取川を信長本人の直接決戦として断定してよい?

A. いいえ。現地で戦った中心は、柴田勝家ら織田の北陸方面軍です。

Q5. 手取川の翌年、上杉家で大きく変わるきっかけは?

A. 上杉謙信の死去。そこから御館の乱へつながります。

参考にした資料

七尾市・白山市・石川県の公開資料で能登侵攻から戦後までを確認し、戦闘の細部は国立国会図書館の調査案内が示す関連史料・研究も踏まえて断定を避けました。