手取川の戦いとは?
- 1577年、上杉謙信が加賀で織田軍と接した。能登の七尾城を落とした謙信が南下し、救援に向かっていた柴田勝家らの織田軍と手取川で接した。
- 織田軍は退いた。七尾城の落城を知った織田軍が撤退するところを上杉軍が追い、川で損害を出したとされる。
- 戦いの規模には議論がある。上杉方の記録では大勝だが、織田方の史料には詳しい記述がなく、どの程度の戦闘だったか確定していない。
- 信長本人は戦場にいなかった。織田軍の指揮は柴田勝家で、秀吉は勝家と対立して途中で戦線を離れていた。
- 謙信は翌年に死去した。北陸で優位に立った謙信は関東出兵を準備中の1578年に急死し、上杉氏の織田への攻勢は止まった。
北陸で上杉と織田が接した戦い
上杉謙信は川中島で武田信玄と争った後、越中を経て能登へ勢力を伸ばしました。1577年9月に七尾城が落ちると、織田方が送った救援軍は目標を失い、加賀方面から撤退に移ります。
そこへ上杉軍が進み、手取川付近で織田軍を破ったと伝わります。上杉の南西進と、越前から加賀・能登を目指す織田の北陸方面軍が交差したことが、この戦いの歴史的な位置づけです。
手取川までの四つの流れ
- まず、上杉謙信が能登方面へ進んだ流れを見る。
- 次に、織田信長が北陸方面へ柴田勝家らを送った流れを見る。
- そのうえで、手取川で織田軍が苦しい撤退をしたとされる点を見る。
- 最後に、翌年の謙信死去と御館の乱で流れが変わることを見る。
関係人物
| 上杉謙信 | 越後の大名。能登・加賀方面へ進み、織田勢力と北陸で向き合います。手取川は謙信晩年の重要な入口です。 |
|---|---|
| 織田信長 | 中央から勢力を広げる大名。手取川では信長本人の一騎打ちではなく、織田の北陸方面軍を送る側として見るのが自然です。 |
| 柴田勝家 | 織田家の重臣。北陸方面を任され、手取川では織田方の中心人物として押さえたい存在です。 |
| 羽柴秀吉 | 織田方の武将。手取川前後では柴田勝家との不和や離陣が語られやすく、のちの織田家内部の人物関係にもつながります。 |
| 前田利家 | 織田方の武将。勝家の与力として北陸へ進み、のちに能登一国を与えられて七尾城へ入ります。 |
| 七尾城 | 能登の重要な城。ここをめぐる救援要請と落城が、手取川の流れを理解する大きな鍵になります。 |
なぜ起きた?
出発点は、能登畠山氏の本拠・七尾城です。内紛で弱体化した城を上杉謙信が1576年から攻め、城内の内応もあって翌年9月に攻略しました。救援を求められた織田信長は、柴田勝家を中心に滝川一益、丹羽長秀、前田利家らを北陸へ送りました。
しかし援軍が加賀へ進んだ時点で七尾城はすでに落ちていました。織田軍が撤退を始めると上杉軍が追い、手取川付近で戦闘になったとされます。能登の一城をめぐる救援戦が、上杉・織田両勢力の北陸進出が衝突する戦いへ変わったのです。
ざっくり年表
北陸の覇権争いを四つの視点で見る
謙信から見る
越中を押さえ、能登の七尾城を攻略して加賀へ進みます。関東・信濃だけでなく、日本海側へ勢力を広げた晩年の動きです。
信長から見る
越前を拠点に柴田勝家らを動かし、加賀・能登へ勢力を広げる段階です。信長本人ではなく方面軍が現地戦を担いました。
柴田勝家から見る
北ノ庄を拠点とする北陸方面の司令官です。七尾城救援を目的に進軍し、撤退する織田軍の中心にいました。
その後を見る
翌年に謙信が急死すると上杉家は御館の乱へ入り、織田軍は北陸進出を再開します。手取川の優勢は、地域の支配を決める最終決着にはなりませんでした。
信長本人が負けた戦い?
手取川は「謙信が信長を破った」と語られやすいですが、信長本人が現地で謙信と直接決戦したわけではありません。織田方の北陸方面軍と上杉方が向き合った戦いとして捉える必要があります。
信長本人の直接対決とせず、「織田軍」「北陸方面軍」「柴田勝家」を中心に整理すると、確認できる戦いの構図が見えます。
規模には議論がある
- 七尾城の落城と織田軍の撤退という前後関係は確認しやすい一方、手取川での戦闘地点、兵数、損害には諸説があります。
- 増水した川に多数の織田兵が流されたという劇的な経過も、すべてを同時代史料から確定できるわけではありません。
- 「上杉に逢うては織田も手取川……」という落首は勝敗のイメージを伝えますが、戦闘の全容を示す記録ではありません。
- 上杉方が織田軍の撤退を追って優勢を得た戦いと見つつ、織田の北陸方面軍が壊滅した決戦とは捉えないのが妥当です。
ここだけ覚える
- 手取川は、謙信の北陸進出と織田の北陸方面軍が衝突した戦い。
- 背景には、能登の七尾城と北陸情勢がある。
- 織田方は柴田勝家ら北陸方面軍として見るとわかりやすい。
- 信長本人の直接決戦として単純化しすぎない。
- 謙信の死後、御館の乱で上杉家の流れが大きく変わる。
手取川の戦いについてのよくある疑問
手取川の戦いは本当にあったのか?
上杉方の書状に織田軍を破ったという記述があり、何らかの戦闘があったことは確かとみられます。ただし織田方の史料には詳細がなく、大規模な決戦だったのか、撤退中の小競り合いだったのかは確定していません。「謙信が信長に勝った戦い」として語られますが、規模には議論があります。
なぜ秀吉は戦線を離れたのか?
北陸へ向かった織田軍のなかで、秀吉は総大将の柴田勝家と作戦をめぐって対立し、無断で戦線を離れました。信長は秀吉を叱責したと伝わりますが、まもなく中国攻めを任せています。この一件は賤ヶ岳での秀吉と勝家の対立の遠因ともいわれます。
七尾城はなぜ落ちたのか?
能登の畠山氏の居城・七尾城は堅固な山城でしたが、家中の内紛と疫病で弱り、遊佐続光ら謙信に通じた家臣が城内で反乱を起こして開城しました。織田軍の救援が間に合わなかったことが、手取川の戦いの前提になっています。
手取川のあと、北陸はどうなったのか?
謙信は加賀北部まで支配を広げましたが、翌1578年3月に急死し、上杉氏は御館の乱で内紛に入りました。織田軍は北陸での攻勢を再開し、1580年に加賀一向一揆を制圧、1582年には越中まで進んでいます。
5問クイズ
Q1. 手取川の戦いで上杉方の中心として押さえたい人物は?
A. 上杉謙信。
Q2. 織田方の北陸方面で中心として押さえたい武将は?
A. 柴田勝家。
Q3. 手取川の背景として重要な能登の城は?
A. 七尾城。
Q4. 手取川を信長本人の直接決戦として断定してよい?
A. いいえ。現地で戦った中心は、柴田勝家ら織田の北陸方面軍です。
Q5. 手取川の翌年、上杉家で大きく変わるきっかけは?
A. 上杉謙信の死去。そこから御館の乱へつながります。
参考にした資料
七尾市・白山市・石川県の公開資料で能登侵攻から戦後までを確認し、戦闘の細部は国立国会図書館の調査案内が示す関連史料・研究も踏まえて断定を避けました。