城ページ / 能登国・畠山氏の本拠

七尾城ななおじょう

七尾城ななおじょうは、能登国(石川県七尾市)の市街地の南東、石動山系の尾根に築かれた山城です。能登守護の畠山氏が本拠とし、16世紀前半の畠山義総の時代には京都から公家や文化人が訪れる文化の拠点となりました。その後、畠山氏は家臣の争いで弱体化し、1577年、上杉謙信の攻撃を受けて家臣の内応により落城。169年にわたる能登畠山氏の支配が終わりました。謙信の死後は織田方の前田利家が入りましたが、利家は平地の小丸山城に本拠を移し、七尾城は廃城となりました。国の史跡です。

1577年落城 能登畠山氏 上杉謙信が攻略 国史跡

要点

  • 能登畠山氏の本拠。室町時代に能登守護となった畠山氏が、守護所を山城へ移して本拠とした。築城の時期は確定していない。
  • 北陸屈指の規模。本丸・二の丸・三の丸など多数の曲輪が尾根に連なり、山全体が城になっている。
  • 文化の都でもあった。畠山義総の時代には京都の公家や連歌師が訪れ、「畠山文化」と呼ばれる。
  • 1577年、謙信に落とされた。家中の内紛で弱った畠山氏を謙信が攻め、重臣・遊佐続光らの内応で開城。畠山氏の支配は終わった。
  • 前田利家が入り、廃城に。謙信の死後、前田利家が七尾城に入ったが、平地の小丸山城へ移り、七尾城は捨てられた。
歴史

七尾城は、どう使われてきたのか

  1. 011408年、能登畠山氏の始まり

    畠山満慶が能登一国の守護となり、能登畠山氏が始まった。当初の守護所は平地にあった。

  2. 02戦国前期、山城へ

    戦乱のなかで畠山氏は本拠を七尾の山上へ移した。築城の時期ははっきりしないが、16世紀前半には整っていたとみられる。

  3. 03畠山義総の時代

    1515年ごろから約30年、義総のもとで能登は安定し、京都から公家・連歌師が訪れた。七尾は北陸の文化の中心となった。

  4. 04家中の内紛

    義総の死後、畠山七人衆と呼ばれる重臣が実権を握り、当主の追放や暗殺が続いた。畠山氏は大名としての力を失った。

  5. 051576〜77年、謙信の攻撃

    越中を制した上杉謙信が能登へ進み、七尾城を囲んだ。城内では疫病が広がり、幼い当主が死去。織田氏に援軍を求める長続連と、謙信に通じる遊佐続光が対立した。

  6. 061577年9月、落城

    遊佐続光らが城内で長続連一族を殺し、城を謙信に開いた。救援に向かった織田軍は手取川で上杉軍と接し、退いた。

  7. 07前田利家と廃城

    謙信の死後、織田方が能登を押さえ、1581年に前田利家が能登を与えられた。利家は七尾城に入ったのち、港に近い小丸山城を築いて移り、七尾城は廃城となった。

どう読むか

七尾城を読むときの三つの視点

  • 守護大名が戦国を生き延びた例。畠山氏は守護の家柄のまま戦国大名化し、170年近く能登を保った。多くの守護家が滅んだなかでは長い。
  • 落城の原因は内側にあった。謙信の攻撃よりも、家中の対立と内応が城を開かせた。堅固な山城も、人の結束が崩れれば守れない。
  • 山城から平城への転換点。利家が七尾城を捨てて港町の小丸山城へ移ったのは、軍事より政治・経済を重視する近世の城への変化を示す。

七尾城は「謙信に落とされた城」として知られますが、それ以前の170年の畠山氏の歴史と、義総の時代の文化の厚みを合わせて読むと、北陸の戦国史が立体的に見えてきます。

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参考にした資料