要点
- 能登畠山氏の本拠。室町時代に能登守護となった畠山氏が、守護所を山城へ移して本拠とした。築城の時期は確定していない。
- 北陸屈指の規模。本丸・二の丸・三の丸など多数の曲輪が尾根に連なり、山全体が城になっている。
- 文化の都でもあった。畠山義総の時代には京都の公家や連歌師が訪れ、「畠山文化」と呼ばれる。
- 1577年、謙信に落とされた。家中の内紛で弱った畠山氏を謙信が攻め、重臣・遊佐続光らの内応で開城。畠山氏の支配は終わった。
- 前田利家が入り、廃城に。謙信の死後、前田利家が七尾城に入ったが、平地の小丸山城へ移り、七尾城は捨てられた。
七尾城は、どう使われてきたのか
- 011408年、能登畠山氏の始まり
畠山満慶が能登一国の守護となり、能登畠山氏が始まった。当初の守護所は平地にあった。
- 02戦国前期、山城へ
戦乱のなかで畠山氏は本拠を七尾の山上へ移した。築城の時期ははっきりしないが、16世紀前半には整っていたとみられる。
- 03畠山義総の時代
1515年ごろから約30年、義総のもとで能登は安定し、京都から公家・連歌師が訪れた。七尾は北陸の文化の中心となった。
- 04家中の内紛
義総の死後、畠山七人衆と呼ばれる重臣が実権を握り、当主の追放や暗殺が続いた。畠山氏は大名としての力を失った。
- 051576〜77年、謙信の攻撃
越中を制した上杉謙信が能登へ進み、七尾城を囲んだ。城内では疫病が広がり、幼い当主が死去。織田氏に援軍を求める長続連と、謙信に通じる遊佐続光が対立した。
- 061577年9月、落城
遊佐続光らが城内で長続連一族を殺し、城を謙信に開いた。救援に向かった織田軍は手取川で上杉軍と接し、退いた。
- 07前田利家と廃城
謙信の死後、織田方が能登を押さえ、1581年に前田利家が能登を与えられた。利家は七尾城に入ったのち、港に近い小丸山城を築いて移り、七尾城は廃城となった。
七尾城を読むときの三つの視点
- 守護大名が戦国を生き延びた例。畠山氏は守護の家柄のまま戦国大名化し、170年近く能登を保った。多くの守護家が滅んだなかでは長い。
- 落城の原因は内側にあった。謙信の攻撃よりも、家中の対立と内応が城を開かせた。堅固な山城も、人の結束が崩れれば守れない。
- 山城から平城への転換点。利家が七尾城を捨てて港町の小丸山城へ移ったのは、軍事より政治・経済を重視する近世の城への変化を示す。
七尾城は「謙信に落とされた城」として知られますが、それ以前の170年の畠山氏の歴史と、義総の時代の文化の厚みを合わせて読むと、北陸の戦国史が立体的に見えてきます。