征服後の能登を動かした「城代」の役割
何を担った人物か
七尾城は、能登国の守護だった畠山氏(1408〜1577年)が能登半島の石動山系に築いた城で、城域は南北約2.5km、東西約1.0kmにおよぶ全国有数の規模でした。天正5年(1577年)に上杉謙信の攻撃で落城したのち、天正9年(1581年)、信長は長頼をこの七尾城の城代に置き、能登支配の拠点を任せました。
信長は同じ天正9年のうちに、長頼へ能登・越中の城割りを命じ、任務を終えると長頼を安土へ呼び戻しました。七尾城代としての在任は一年に満たなかったことになります。地域史料には、同じ天正9年に前田利家が信長から能登一国を与えられ、七尾城へ入ったことも記されています。
翌天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、京にいた長頼は二条城で討ち死にしたと伝わります。能登に残った前田利家は、上杉方についていた温井景隆・三宅長盛らを石動山で討ち、天正11年(1583年)に居城を金沢へ移すまで七尾城を治めました。跡は兄の前田安勝が城代を継いでいます。
時系列
信長により七尾城の管理を任され、能登支配の拠点を預かります。
能登・越中の城割りを命じられ、任務を終えると安土へ呼び戻されます。
京にいた長頼は、本能寺の変の混乱のなかで二条城で討ち死にしたと伝わります。
長頼の没後、能登では前田利家が石動山の旧勢力を退け、1583年に金沢へ移るまで七尾城を治めました。
読み違えないために
七尾城代としての在任は天正9年(1581年)の一年に満たず、本能寺の変が起きたとき、長頼は京にいたとされます。本能寺後の能登の再編を担ったのは前田利家です。ここでは地域史料と人物データで確認できる配置・城割り・没年を軸に、能登支配の変遷として整理します。
参考にした資料
- 七尾市教育委員会「史跡七尾城跡保存活用計画 策定フォーラム資料編」(巻末の能登畠山氏・七尾城関係略年表。長頼の七尾城代就任・城割り・安土帰還、前田利家の能登拝領・石動山の合戦を記載)
- 七尾市「史跡七尾城跡」(七尾城の規模と沿革、能登畠山氏の歴史、前田利家の入城時期を記載)
- 石川県立図書館 ふるさとコレクション「菅屋長頼」人物詳細(生没年、信長の側近・七尾城代という経歴、本能寺の変での討ち死にを記載)