人物ページ / 生年不詳–1582年 / 能登・七尾城・北陸

菅屋長頼すがや ながより

菅屋長頼は、上杉方から能登を奪った織田政権のもとで、最初の七尾城代となった武将です。任されたのは能登・越中の城割りという仕事で、在任は一年に満たず安土へ呼び戻されました。長頼を追うと、征服した土地の支配を誰にどう引き継ぐかという、戦後処理の実際の姿が見えてきます。

この人物を先に理解する

征服後の能登を動かした「城代」の役割

  • 系譜は織田信房の子とされ、織田信長おだ のぶながの側近として仕えた武将です。
  • 天正9年(1581年)、信長は長頼を七尾城代に置きました。
  • 同じ年のうちに能登・越中の城割り(城を壊す仕事)を命じられ、安土へ呼び戻されたことが地域史料に残ります。
  • 翌天正10年(1582年)、本能寺の変の混乱のなかで京の二条城で討ち死にしたと伝わります。

何を担った人物か

七尾城は、能登国の守護だった畠山はたけやま氏(1408〜1577年)が能登半島の石動山系に築いた城で、城域は南北約2.5km、東西約1.0kmにおよぶ全国有数の規模でした。天正5年(1577年)に上杉謙信うえすぎ けんしんの攻撃で落城したのち、天正9年(1581年)、信長は長頼をこの七尾城の城代に置き、能登支配の拠点を任せました。

信長は同じ天正9年のうちに、長頼へ能登・越中の城割りを命じ、任務を終えると長頼を安土へ呼び戻しました。七尾城代としての在任は一年に満たなかったことになります。地域史料には、同じ天正9年に前田利家が信長から能登一国を与えられ、七尾城へ入ったことも記されています。

翌天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、京にいた長頼は二条城で討ち死にしたと伝わります。能登に残った前田利家は、上杉方についていた温井景隆・三宅長盛らを石動山で討ち、天正11年(1583年)に居城を金沢へ移すまで七尾城を治めました。跡は兄の前田安勝が城代を継いでいます。

時系列

1581年
七尾城代となる

信長により七尾城の管理を任され、能登支配の拠点を預かります。

1581年
城割りと安土帰還

能登・越中の城割りを命じられ、任務を終えると安土へ呼び戻されます。

1582年
本能寺の変で討ち死に

京にいた長頼は、本能寺の変の混乱のなかで二条城で討ち死にしたと伝わります。

1582年以降
前田利家による能登の統治

長頼の没後、能登では前田利家が石動山の旧勢力を退け、1583年に金沢へ移るまで七尾城を治めました。

読み違えないために

七尾城代としての在任は天正9年(1581年)の一年に満たず、本能寺の変が起きたとき、長頼は京にいたとされます。本能寺後の能登の再編を担ったのは前田利家です。ここでは地域史料と人物データで確認できる配置・城割り・没年を軸に、能登支配の変遷として整理します。

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参考にした資料