事件・合戦ページ / 1488〜1582年・加賀国

加賀一向一揆かがいっこういっき

加賀一向一揆は、一向宗の門徒が国衆くにしゅうとともに守護・富樫政親とがしまさちかを倒し、以後約100年にわたって加賀国(石川県南部)を運営した一揆です。「百姓の持ちたる国」と呼ばれた、戦国でただ一つの「大名のいない国」として知られます。

1488年、守護を倒す 約100年の「大名のいない国」 中心拠点は金沢御堂かなざわみどう 1580年、柴田勝家しばた かついえに敗れる

加賀一向一揆とは?

  • 始まりは、守護の家督争いへの「加勢」だった。1474年、蓮如の吉崎布教で急増した門徒は、守護・富樫政親の側に付いて家督争いを勝たせた(文明一揆)。しかし政親が門徒を抑えにかかると両者は決裂し、1488年、門徒と国衆は20万と号する大軍で政親を高尾城に攻めて自害させた(長享の一揆)。一揆は富樫一族の泰高を名ばかりの守護に立て、幕府との正面衝突を避けている。
  • 「百姓の持ちたる国」の実態は、寄り合いの連合政権だった。国の実務は、郡や組と呼ばれる地域ごとの寄り合いが担い、その上に蓮如の子どもたちが住職を務める三つの寺(松岡寺・本泉寺・光教寺、あわせて加州三ヶ寺)が指導層として立った。「百姓」といっても農民だけの国ではなく、地侍や村の有力者、寺の僧を含む幅広い層の連合になる。
  • 内輪もめを経て、支配の中心は本願寺本山へ移った。1531年、門徒どうしが戦う内戦(享禄の錯乱きょうろくのさくらん)で加州三ヶ寺の体制が崩れ、以後は大坂の本願寺が坊官(宗主に仕える実務の役僧)を送り込んで直接束ねる形に変わった。1546年には今の金沢城の場所に金沢御堂が建てられ、宗教・政治・軍事を兼ねた加賀の首都になる。
  • 終わりは二段階だった。石山合戦が始まると加賀は本願寺の北陸戦線の中核となり、織田軍と正面から戦った。1580年、柴田勝家が金沢御堂を落として国全体の体制は解体。白山のふもとの門徒は鳥越城でさらに抵抗を続けたが、1582年に鎮圧された。御堂の跡地は、1583年から前田利家まえだ としいえの金沢城になる。
経過

吉崎から金沢御堂陥落まで、約100年

  1. 011471〜75年、吉崎と最初の一揆

    蓮如が吉崎御坊よしざきごぼうで布教を始めると、北陸の門徒は爆発的に増えた。1474年、門徒は富樫政親に味方し、真宗の別系統・高田派の門徒が支える弟の幸千代を破る(文明一揆)。しかし勝った途端に政親との関係は悪化し、武力化を止められない蓮如は1475年に吉崎を去った。

  2. 021488年、長享の一揆で守護を倒す

    門徒への抑圧と、幕府の命令による近江出陣の負担が重なり、国中の門徒と国衆が蜂起した。政親は高尾城で自害。一揆は富樫泰高を守護に立てて幕府の形式を守りつつ、実権を握った。

  3. 03三ヶ寺と寄り合いの時代

    蓮如の子らの加州三ヶ寺が指導層となり、郡・組の寄り合いが裁判や年貢、動員を担った。1506年には本山の呼びかけで越前へ攻め込んだが、九頭竜川で朝倉氏に大敗し、吉崎の坊舎も焼かれている。

  4. 041531年、享禄の錯乱——門徒どうしの内戦

    加賀の指揮権をめぐって門徒が大一揆・小一揆に割れて戦い、三ヶ寺側の小一揆が敗れた。以後は本願寺本山が坊官を通じて加賀を直接束ね、1546年、金沢の小立野台地の先端(今の金沢城の場所)に金沢御堂が築かれて、寺内町を持つ加賀の首都になった。

  5. 05朝倉・上杉、そして織田との戦い

    越前の朝倉氏とは国境で長く戦ったが、1569年、信長という共通の敵の出現で和睦し、敵から同盟相手に変わった。1570年に石山合戦が始まると加賀は本願寺の北陸拠点となり、1577年の手取川の戦いなど、上杉・織田の大軍が行き交う戦場になっていく。

  6. 061580〜83年、陥落から前田の金沢へ

    石山本願寺が講和した1580年、柴田勝家が金沢御堂を攻略し、一国を束ねる体制は解体した。白山のふもとの山あいの門徒(山内衆)は鈴木出羽守すずき でわのかみらを中心に鳥越城・二曲城で抵抗を続けたが、1582年までに鎮圧された。御堂の跡は佐久間盛政さくま もりまさの城を経て、1583年から前田利家の金沢城になる。

検証

「百姓の共和国」は本当か

語られ方 農民の理想国という美化

加賀は「百姓の共和国」「農民自治の先駆け」と紹介されることがある。しかし当時の「百姓」は農民だけを指す言葉ではなく、村の有力者や地侍まで含む幅広い言葉で、実際に国を動かしたのは寺・国衆・有力門徒の連合だった。1488年の「20万」という兵数も後世の記録の数字で、実数とは確かめられない。近代の民主主義を重ねると実像から離れる。

史料と現地 確かめられること

文明一揆から長享の一揆への経過は福井県史や野々市市の資料で、金沢御堂が現在の金沢城跡にあったことは金沢市の史跡解説で確かめられる。最後の抵抗の舞台・鳥越城跡と二曲城跡は国の史跡で、白山市は1580年からの戦いで600人を超える犠牲が出たと伝えている。約100年の自治も、その終わりの苛烈さも、現地に根拠が残っている。

どう読むか

加賀一向一揆から、何が見えるのか

  • 100年続いた理由は、戦の強さより「日常を回せたこと」にある。郡・組の寄り合いは、戦だけでなく土地争いの裁定や年貢、道や堤の管理まで担っていた。越前の一揆が1年半で崩れたのと比べると、外から支配を持ち込むのではなく、地元の寄り合いの上に組織が育った差がはっきり出ている。
  • 一揆は一枚岩ではなかった。守護と組んだかと思えば守護を倒し、門徒どうしで内戦もした。享禄の錯乱は「共同体が大きくなるほど、誰が命令するかが問題になる」ことを示す実例で、信仰は人を結ぶが、政治的な一枚岩は作らないことがよく分かる。
  • 金沢の街は、一揆が作った。前田百万石の城下町・金沢の出発点は、金沢御堂とその寺内町になる。織田・前田の支配は一揆の都市を消したのではなく、その立地と人の集積を城下町へ作り替えた。今の金沢城公園に立つことは、一向一揆の首都の跡に立つことでもある。

倒された守護の側は富樫政親とがしまさちか、門徒が育った出発点は吉崎御坊で整理しています。

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参考にした資料