要点
- 富樫氏は、鎌倉末から続く加賀の名族だった。本拠は野々市(石川県野々市市)の富樫館で、加賀守護を代々務めた。政親の時代は応仁の乱と重なり、家督をめぐって弟の幸千代と争った。この内輪の争いに、東西両軍の対立と、本願寺系・高田系という真宗の宗派対立まで乗っかったのが、加賀の運命の分かれ目になる。
- 家督争いは、一向一揆の力を借りて勝った。1474年、政親は蓮如の吉崎布教で急増していた本願寺門徒と手を結び、高田系の門徒が支える幸千代を破った。守護自身が一揆の武力を政治に引き込んだ形で、門徒たちは「守護を勝たせた」実績と自信を得た。
- その一揆に倒され、加賀は「百姓の持ちたる国」になった。力を増す門徒を政親が抑えにかかると両者は決裂し、1488年、長享の一揆が起きる。20万と号する一揆勢に高尾城を囲まれ、政親は自害した。一揆は富樫一族の泰高を新しい守護に立てて幕府との形式を保ちつつ、実権を握った。以後約100年、大名のいない加賀が続く。
家督争いから高尾城まで
- 01富樫氏と野々市
富樫氏は鎌倉末から力を伸ばした武士団で、守護所を置いた野々市は加賀の政治・経済の中心だった。富樫館跡は今も野々市市に残る。
- 02応仁の乱と弟・幸千代との争い
家督をめぐる政親と幸千代の争いは、応仁の乱の東西対立と連動した。さらに政親方には本願寺系の門徒、幸千代方には高田系の門徒が付き、宗派対立の代理戦争の色も帯びた。
- 031474年、一揆の力で家督を取る
政親は本願寺門徒の武力を借りて幸千代を破り、守護の座を固めた。吉崎にいた蓮如は門徒の武力化を戒めたが、流れは止まらなかった。
- 04門徒との決裂
戦後、政親は力を増した門徒への警戒を強め、抑圧に転じた。幕府への出兵負担などで領国への課税も重くなり、国人と門徒の不満が政親に集中していく。
- 051488年、長享の一揆と高尾城の落城
国中の門徒と国人が蜂起し、20万と号する一揆勢が政親の高尾城を包囲した。6月、城は落ち、政親は自害する。守護大名が領国の一揆に滅ぼされた、戦国史でも異例の結末だった。
- 06その後——名前だけの守護と一揆の国
一揆は富樫一族の泰高を守護に立て、幕府との対立を避けた。実権は門徒と国人の寄り合いにあり、「百姓の持ちたる国」と呼ばれる体制が約100年続く。加賀が再び大名の国になるのは、1580年の柴田勝家の平定を待つことになる。
「圧政で倒された暗君」だったのか
語られ方 一揆物語の悪役
政親は「民を苦しめて倒された守護」として、一向一揆の物語の悪役に置かれがちになる。しかし一揆の武力を最初に政治へ引き込んだのは政親自身で、決裂の背景には幕府への出兵負担など守護の側の事情もあった。単純な暗君像では、加賀で起きたことの因果が見えなくなる。
資料と現地 確かめられること
家督争いの経過、1488年の長享の一揆と高尾城での自害、泰高の擁立は、富樫氏の本拠地・野々市市の資料で確かめられる。守護所のあった富樫館跡、最期の地の高尾城跡はいずれも現地に残り、市がその歴史を伝えている。
政親の生涯から、何が見えるのか
- 一揆を「使った」者が、一揆に倒された。門徒の武力で家督を取った成功体験は、門徒に「守護は自分たちが決められる」という前例を与えた。力を借りることと、力に頼られることの境目を、政親の生涯ほどはっきり示す例はない。
- 一揆の統治術は、意外にしたたかだった。守護を殺しながら、富樫の名は残して幕府と正面衝突を避ける。加賀の一揆は無秩序な暴徒ではなく、形式と実利を使い分ける政治集団だったことが、泰高擁立の一手から読み取れる。
- 守護大名の限界が、ここに出ている。幕府の権威を後ろ盾にする守護は、領国の内側で結束した在地勢力に対抗する足腰を持たなかった。政親の死は、権威で治める時代から実力で治める戦国大名の時代への転換を告げる事件でもあった。