事件・合戦ページ / 1467〜1477年・京都

応仁の乱おうにんのらん

応仁の乱とは?

幕府の実権をめぐる細川勝元と山名宗全そうぜんの争いに将軍家・畠山・斯波の後継争いが乗り、諸国の守護が東軍・西軍に分かれて、1467年から11年、京都で戦った内乱。

1467年1月、畠山家の二人が御霊合戦で戦い、これを火種に両軍が諸国から兵を京都に集めます。5月26日、細川の東軍が先に攻撃を仕掛けます。
8月、周防すおうの大内政弘まさひろが大軍で西軍に加わり、形勢は逆転。10月の相国寺しょうこくじ合戦で両軍とも大きな被害が出ました。
東軍は将軍の御所を土塁と堀で囲んで籠り、洛中では足軽の放火や食糧路の遮断が続きます。戦いは京都の外と地方へ広がります。
西軍で最も働いた朝倉孝景たかかげが、幕府の秘密交渉に応じて越前で東軍に転じ、1471年に越前を手にします。
1473年、山名宗全と細川勝元が相次いで死去。将軍職は義政の子・義尚よしひさに移りますが、戦いは終わりません。
1477年、幕府が大内政弘に領国を認めて帰国させ、畠山義就よしなりら西軍の大名も領国へ引き揚げて乱は終わります。

開戦——1467年5月、東軍が先に攻めた

8代将軍・足利義政は政治を細川・山名・畠山・斯波ら有力な守護に任せ、幕府の実権は、管領かんれいを出す三家(三管領さんかんれい)の一つ細川家の当主・勝元と、一族で山陰を中心に多くの国の守護を務めた山名宗全の二人が争っていた。同じころ、将軍家と畠山・斯波の両家では当主の座をめぐる争いが同時に起きており、勝元と宗全はそのどれでも逆の側を支えた。守護は京都に住み、領国から兵を呼べる。将軍が裁かない争いは、京都で軍勢どうしの衝突になった。勝元の側が東軍、宗全の側が西軍と呼ばれ、三つの家はどれも二つに割れて、一人ずつが両軍に入った。

三つの後継争い東軍(細川勝元が推した)西軍(山名宗全が推した)
将軍の後継足利義視よしみ。義政の弟で、いったん後継に指名された足利義尚。義政の子で、母の日野富子が宗全を頼った
畠山家の家督畠山政長まさなが。管領を務めていた畠山義就。政長のいとこ
斯波家の家督斯波義敏よしとし斯波義廉よしかど。家臣の朝倉・甲斐かいもこちら
ほかの守護赤松・京極・武田一色。8月から大内

1月・御霊合戦 最初に戦ったのは、畠山家の二人だった

1467年1月、宗全らの働きかけで畠山政長はたけやま まさながが管領を解かれ、屋敷を明け渡すよう命じられた。追い詰められた政長は17日の夜、自邸を焼いて上御霊社かみごりょうしゃの森に立てこもる。翌18日の早朝、いとこの畠山義就が山名方の兵とともに攻めかかり、社殿が燃える中で政長は敗れ、細川勝元の屋敷に逃げ込んだ。義就側には、斯波義廉しばよしかどの家臣・朝倉孝景も加わっていた。この戦いのあと停戦も探られたが、両軍は諸国から兵を京都に集め続けた。

5月26日・開戦 東軍が午前4時に口火を切った

1467年5月の開戦までに集まった兵は合わせて20数万に及んだ。東軍は将軍のいる花の御所を、西軍は堀川の西にある宗全の屋敷を本陣にした。5月に入ると遠江とおとうみ・尾張・越前で細川側が動き、26日午前4時、東軍が口火を切って、武田勢が西軍の陣の南の入口へ攻めかかった。西軍は一条大宮の細川勝久かつひさ邸を朝倉・甲斐勢で攻め返し、東軍は京極・赤松勢を送って押し戻す。2日間で小休止となり、兵力で勝る東軍がやや優勢だった。

大内の上洛——8月に西軍が逆転し、相国寺で痛み分けた

6月、それまで態度をはっきりさせなかった義政が山名討伐を命じ、西軍の諸将に降参を呼びかけた。西軍にいた管領・斯波義廉は動揺して宗全の陣を出たが、御所への出仕は許されず、「降参するなら朝倉孝景の首を取ってこい」と言われて屋敷に籠った。7月、東軍は義廉の屋敷を20日余り攻めたが、朝倉・甲斐がしのぎ切る。ここへ、西国から大軍が来た。

8月23日 大内政弘、大軍で入京

1467年8月23日、周防・長門ながと・豊前・筑前4か国の守護、大内政弘が大軍を率いて京都に入った。父・教弘の死から2年ほどだった。大内勢は摂津を経て上洛し、京都の各地で戦っている。勢いづいた西軍は9月1日、武田勢の守る三宝院さんぼういんを攻め落として焼くなど各地で東軍を圧倒し、東軍を御所のある京都の東北隅に封じ込める形になった。

10月3日 相国寺合戦——境内の白兵戦で、寺はほぼ焼けた

1467年、西軍は御所の東隣にある相国寺の奪取を狙い、東軍は勝元の重臣を寺に入れて守った。10月3日、西軍に内通した僧が寺に火を付け、武田勢は敵が乱入したと思って退く。境内で両軍総力の白兵戦になり、大内軍と武田・赤松勢がぶつかった。2日間で双方に甚大な被害が出て、建物はほとんど焼失。この合戦のあと、本格的な戦闘は見られなくなる。

膠着——御構に籠る東軍、足軽、戦線は洛外と地方へ

相国寺のあと、大軍どうしの合戦は減った。西軍が洛中の大半を押さえ、東軍は花の御所の周りを土塁と堀で囲んで籠る。戦いの中心は、京都の外へ移っていった。

御構 天皇も公家も、堀の中に避難した

東軍は花の御所を中心に、土塁と堀で囲んだ御構おんかまえを築いた。中には天皇・上皇や公家、裕福な町人が避難して仮住まいにした。外は西軍がほぼ制圧し、下京との連絡も断たれ、外と通じる道は東軍に味方した比叡山のある北だけ。狭い構の中では疫病と火災が繰り返された。この堀や土塁の跡は、相国寺の境内や烏丸一条で見つかっている。

足軽 大軍が動かない間、京都を焼いたのは雇われ兵だった

この乱で大量に動員されたのが足軽だった。軽装で動きが速く、集団で戦う雇われ兵で、大名の家臣が他国から雇い入れることもあった。大軍どうしの合戦が止まったあとも、洛中では足軽が相手の食糧の運搬路を断ち、放火を繰り返し、略奪も働いた。上京の町は、こうした放火にも繰り返しさらされた。

洛外と地方 戦いは京都の外へ広がった

1468年後半から、一乗寺・山科・醍醐・伏見稲荷・鳥羽・下桂など洛外での戦闘が増えた。1469年には丹後で、東軍の武田勢が西軍の一色氏の領国に討ち入り、山名は但馬たじまから援軍を送って、取り合いは1474年ごろまで続く。越前では斯波義敏しばよしとしの勢力が侵攻し、朝倉の一党を国外へ追った。京都で膠着した戦いは、各地でそれぞれの戦いになっていった。

孝景の寝返り——越前で、西軍から東軍へ

西軍で最も目覚ましい働きをしたのは、斯波義廉の家臣・朝倉孝景だった。5月26日の開戦では、東軍の京極勢が押し寄せると馬から飛び降りて自ら敵5、6人を斬り伏せ、甲斐・織田らと37人を討ち取って京極勢を敗走させた。6月14日には二条で武田勢80人余を待ち伏せし、24の首を取っている。東軍は義廉に降参の条件として孝景の首を求めたほどで、それが無理と知ると、孝景本人を寝返らせる工作に切り替えた。

秘密交渉 将軍の意思かと、孝景は耳を疑った

1468年9月、幕府の政所執事・伊勢貞親さだちかが孝景に勧誘の書状を送った。孝景は「真実上意ニ候哉(本当に将軍のお考えか)」と耳を疑ったが、将軍・義政の御内書も届く。交渉は赤松氏の家臣・浦上則宗のりむねに引き継がれ、孝景は東軍に付く条件として、越前の守護職に相当する権限を求めた。同じ東軍になる宿敵・斯波義敏の下で戦うことは、孝景には受け入れがたかった。

越前 表向きは西軍のまま、1469年に大勝した

1468年閏10月、孝景は嫡男・氏景を京都に残して越前へ下った。翌1469年、孝景はひそかに東軍に付くことを承知する。ただし越前は西軍方に囲まれていた。孝景は表向きは西軍のまま準備を整え、夏に合戦を始めて8月に大勝する。裏の約束を知らない東西両軍には、この動きは不可解に映り、噂と虚報が入り乱れた。1471年5月、将軍の御内書で越前の守護職を認められ、孝景の寝返りは決定的になった。

両大将の死——1473年、宗全と勝元が相次いで死んだ

1469年、戦局は地方に広がり、両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せたが、合戦は膠着したまま動かなかった。そんな中、1473年(文明5年)に山名宗全と細川勝元が相次いで死去する。さらに同じ年、義政は将軍職を子の義尚に譲った。

大将の死 乱を始めた二人が、決着を見ずに退場した

1473年に死去したとき、宗全は70歳、勝元は44歳。幕府の実権を争って乱を始めた二人は、どちらが勝つかを見ないまま、同じ年に世を去った。大将を失っても両軍は解散せず、戦闘はそのまま続く。二人の争いは、畠山の家督や越前・丹後の取り合いのような、家ごと・地域ごとの争いに姿を変えて残った。

9代将軍・義尚 将軍家の後継争いは、ここで決まった

三つの後継争いのうち、将軍家の争いは、1473年12月に8歳の義尚が9代将軍になったことで決着した。8歳の将軍に政務は任せられず、父の義政と母の日野富子らが後見した。義尚は乱の終結後に、政治への意欲を示すようになる。

終結——1477年、西軍の大名が領国へ引き揚げた

両大将の死後も戦闘は続いたが、決着をつける戦いは起きなかった。1476年、義政は西軍の大内政弘に、東西両軍の和平を取り持つよう命じる。翌1477年(文明9年)10月、幕府は政弘に周防など4か国の守護職を認め、11月、政弘ら西軍の大名は領国へ帰った。

引き揚げ 幕府が領国を認め、西軍は帰っていった

1477年、大軍を率いていた政弘の帰国を機に、畠山義就は河内に兵を引き、他の大名も領国に引き揚げた。御所を守り切った東軍と将軍・義尚は京都に残った。しかし相手を降伏させた者はおらず、政弘は領国を認められて帰り、畠山の家督争いは河内と大和で続いた。

焼け跡 上京は焼け野原、下京はほとんど焼けなかった

寺社や公家屋敷をはじめ、上京の町の大半が焼けた。「二条より上、北山東西ことごとく焼野の原と成て、すこぶる残る所は将軍の御所計也」と伝わる。一方で花の御所・内裏・仙洞御所は焼けず、商工業者の住む下京にはほとんど火が放たれなかった。乱後の京都は、上京の東軍と西軍の構、一条通の空堀を隔てて下京の町、という景観になっていた。

戦国へ——幕府の命令が効かなくなり、京都の町と地方が変わった

応仁の乱に勝者はいない。東軍は御所を守り切り、義尚が将軍になったが、幕府が守護をまとめて動かす力は戻らなかった。将軍は動かず、実権を握った者が幕府を動かすという形は、細川政元ほそかわ まさもとが将軍を交代させた明応の政変へそのまま続いていく。

幕府 全国への影響力を失った

乱のあと、室町幕府は全国的な影響力を失い、将軍などそれまでの権威は下がって、実力がものを言う時代になった。幕府そのものは残ったが、守護をまとめて動かす力は戻らなかった。乱後も南山城で対陣を続けた両畠山軍を退去させたのは、幕府ではなく1485年の山城国一揆やましろのくにいっきだった。関東では、応仁の乱より13年早く享徳の乱きょうとくのらんが始まっており、幕府の統制は東西で別々に崩れた。

地方 守護が帰り、力のある者が入れ替わった

京都に住んで幕府を支えてきた守護たちが領国へ帰り、京都で戦っている間に領国で力を伸ばした守護代や国人と向き合うことになった。斯波氏しばしの家臣だった朝倉孝景が、寝返りの条件で越前を手にして戦国大名になったのが典型で、下剋上はここから広がる。

京都の町 自衛を覚え、西陣が生まれた

京の人々は構と堀で町を守る中で、町の防衛と自治の仕組みを学んだ。堺へ逃れていた織工は乱後に戻り、西軍の陣跡には大舎人座おおとねりざ、東軍の陣跡の白雲村には練貫座ねりぬきざが組織された。西軍の陣があった一帯は「西陣」と呼ばれ、乱の10年後には地名として定着していた。

文化 公家と僧が地方へ下り、京都の文化が広まった

戦乱を避けて地方に下った公家や僧によって、中央の文化が地方に広まった。大内氏の山口には乱の前から雪舟が庵を結んでおり、明から帰国して各地を巡ったのちも山口に落ち着いて、政弘らの訪問を受けた。京都では義政のもとで、会所の座敷飾りや芸能などの室町文化が洗練されていった。

応仁の乱の疑問に答える

なぜ「応仁」の乱と呼ぶ?

始まった1467年の元号「応仁」から取られている。乱は文明9年まで続いたので「応仁・文明の乱」が正式で、始まった年号だけを取って応仁の乱ともいう。元号+乱・変・役という事件名の付け方は、乱・変・役・陣の違いで整理しています。

山名宗全は、細川と並ぶほどの人物だった?

山名は管領を出せる家ではないが、幕府の実力者として細川と並んだ。細川・斯波・畠山が管領を出す三家で、その下に、京都の検断(警察と裁判)を扱う侍所の長官を出す四家(赤松・一色・京極・山名)があり、四職と呼ばれた。山名氏は山陰を中心に、最盛期には全国66か国のうち11か国の守護を兼ねて「六分の一殿」と呼ばれた。宗全は、将軍・足利義教を殺した赤松満祐を討った功績で力を伸ばした人物で、乱にあたっては但馬の此隅山このすみやま城に2万6千余騎を集めて京都へ上ったと伝わる。

両軍あわせて27万人というのは本当?

27万は軍記由来の数字で、実数としては確かめられない。両軍あわせて20数万、あるいは約27万といわれる、という形で伝わる。戦った範囲は京都を中心に、東国と九州を除く全国各地に及んだ。

どこで始まった?

京都・上京の上御霊社(上御霊神社)。1467年1月18日、畠山義就が畠山政長の陣を攻めた場所で、神社の前には京都市が1970年に建てた「応仁の乱勃発地」の石標が立つ。東軍と西軍の全面戦争が始まったのは、同じ年の5月26日になる。

今の京都に何が残っている?

西軍本陣の跡は上京区の山名町にあり、「山名宗全邸址」の石標が立つ。山名町という町名はこの屋敷にちなむもので、地蔵盆には町内の人々が石碑の前に集まり、乱で亡くなった人々の冥福を祈っている。京都市考古資料館の前には西陣の由来を記す「西陣」碑があり、烏丸一条では、一条通を挟んで両軍が対峙した大規模な堀が発掘調査で見つかっている。激戦地の一つ百々橋は、江戸時代の石橋の礎石が残る。相国寺は境内で合戦が行われ、建物のほとんどが焼けた。

戦国時代は応仁の乱から始まった?

教科書の定番ではそうなる。ただし関東では1454年の享徳の乱からすでに戦乱が続いており、始まりの取り方には諸説ある。どの説を取るかと諸説の整理は、戦国時代はいつからいつまで?にまとめている。

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