勢力・家ページ / 三管領さんかんれいの名門が家臣に国を奪われた

斯波氏しばし

斯波氏(斯波家)は、足利氏の一門で、室町幕府の管領かんれいを出す三管領の筆頭格だった名門です。越前・尾張・遠江とおとうみの守護を兼ね、「武衛家」とも呼ばれました。しかし15世紀半ばの義敏と義廉の家督争いが応仁の乱の一因となり、乱のなかで越前は守護代の朝倉氏に、遠江は今川氏に奪われます。残った尾張でも守護代の織田氏が実権を握り、斯波義統しばよしむねが1554年に織田信友おだ のぶともに殺され、子の義銀は織田信長に擁立されたのち追放されました。斯波氏の没落は、守護の家が家臣に国を奪われる戦国の典型です。

足利一門・三管領の筆頭格 越前・尾張・遠江の守護 家督争いが応仁の乱の一因に 朝倉・織田・今川に国を奪われる

斯波氏とは?

  • 足利一門の最上位の家。足利氏から早くに分かれ、奥州の斯波郡を名字の地とした。室町幕府では細川・畠山と並ぶ三管領の一つで、家格はその筆頭とされた。
  • 三か国の守護だった。越前・尾張・遠江の守護を世襲し、京都に住んで幕政に関わった。現地の支配は越前の甲斐氏・朝倉氏、尾張の織田氏など守護代に任せていた。
  • 家督争いが応仁の乱の一因になった。1450〜60年代、斯波義敏しばよしとしと斯波義廉しばよしかどの家督争いが細川勝元ほそかわ かつもと・山名宗全やまな そうぜんの対立と結びつき、畠山氏の争いとともに応仁の乱の引き金となった。
  • 乱のなかで越前と遠江を失った。守護代の朝倉孝景が東軍に転じて越前を手中にし、遠江は今川氏に奪われた。斯波氏に残ったのは尾張だけだった。
  • 尾張でも守護代に実権を奪われた。織田氏が尾張を実際に治め、守護の斯波氏は清洲城に住む名ばかりの存在となった。義統よしむねは1554年に殺され、義銀は信長に追放された。
家のはじまり

斯波氏は、なぜ「三管領の筆頭」だったのか

  • 足利宗家に最も近い分家。鎌倉時代に足利氏から分かれ、当初は足利を名乗っていた。足利尊氏の時代には一門の最上位に位置し、尊氏の弟・直義に仕えた。
  • 義将が管領として幕府を支えた。斯波義将は三代将軍足利義満のもとで長く管領を務め、幕府の制度を整えた。斯波氏の家格はこの時期に固まった。
  • 「武衛」と呼ばれた。当主が兵衛府の官職(左兵衛督など)に任じられることが多く、その唐名から「武衛家」と呼ばれた。京都の屋敷も武衛陣と呼ばれた。

三管領の仕組みは三管領とはで、管領の役割は管領とはで整理しています。細川氏・畠山氏とあわせて読むと、三管領それぞれの衰え方の違いが見えます。

家督争いと応仁の乱

斯波氏の家督争いは、どう応仁の乱につながったのか

  1. 011452年:義敏の家督相続

    斯波氏の当主が相次いで早世し、分家から斯波義敏が迎えられました。しかし越前の守護代・甲斐氏と対立し、幕府の不興を買って1459年に家督を追われます。

  2. 021461年:義廉の入嗣

    義敏に代わって、関東管領かんとうかんれいの家から斯波義廉が養子に迎えられました。その後も二人の家督は、将軍・足利義政あしかが よしまさの裁定で何度も入れ替わりました。義廉は山名宗全と結びつき、義敏は細川勝元の支援を得て、二人の争いは幕府の二大勢力の対立と重なります。

  3. 031467年:応仁の乱

    斯波氏と畠山氏の家督争い、将軍家の後継問題が結びついて応仁の乱が始まりました。義廉は西軍、義敏は東軍に属し、同じ斯波氏が二つに分かれて戦います。

  4. 041471年:越前を失う

    西軍の義廉に従っていた越前守護代・朝倉孝景が、東軍から越前守護職を約束されて寝返りました。孝景は越前へ戻って実質的な支配者となり、斯波氏は越前を失います。

応仁の乱の全体像は応仁の乱で、朝倉氏の自立は朝倉氏で整理しています。

三国を失う

尾張の斯波氏は、どう終わったのか

  • 遠江は今川氏に。応仁の乱後、遠江は今川氏親いまがわ うじちかが攻め取り、斯波氏の支配は終わった。斯波氏は遠江回復を図って今川氏と争ったが、果たせなかった。
  • 尾張は守護代の織田氏が実際に治めた。斯波氏は清洲城に住み、守護として形のうえでは尾張の主だったが、政治も軍事も守護代の清洲織田氏が担った。
  • 1554年、義統が殺された。守護代の織田信友が斯波義統と対立し、清洲城内で義統を襲って殺害した。子の義銀は那古野なごやの織田信長のもとへ逃れた。
  • 義銀は信長に擁立され、追放された。信長は義銀を守護として立てて信友を討ち、清洲城を手に入れた。しかし1561年、義銀が信長に背いたとして追放され、尾張守護斯波氏は終わった。

斯波氏は、守護が三か国すべてを家臣に奪われた例です。越前・尾張・遠江のいずれも、現地の守護代や隣国の大名が実力で取って代わりました。織田氏の台頭は織田氏で、清洲の家は清洲織田氏とはで読めます。

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斯波氏をめぐる人物

斯波氏についてのよくある疑問

なぜ三管領の筆頭が、こんなに簡単に国を失ったのか?

斯波氏は京都に住んで幕政に関わる家で、三か国の現地支配は守護代に任せきりでした。守護代が現地の国衆くにしゅうや経済を押さえて力をつけると、守護は名前だけの存在になります。さらに家督争いで当主の権威が落ち、応仁の乱で幕府そのものが弱ったため、守護代や隣国の大名を抑える手段がなくなりました。「家格は高いが実力がない」状態が、斯波氏の没落の理由です。

「武衛」とは何か?

兵衛府という朝廷の官職の唐名(中国風の呼び名)です。斯波氏の当主が代々左兵衛督などに任じられたため、斯波氏の家や当主を「武衛」「武衛家」と呼ぶようになりました。信長の時代の記録で「武衛」とあれば、尾張守護の斯波氏を指します。

信長はなぜ斯波義銀を擁立したのか?

1554年に義統が殺されると、信長は逃れてきた義銀を保護し、守護として立てました。守護を擁することで、守護代の織田信友を「主君を殺した逆臣」として討つ大義名分を得たのです。信長が清洲城を手に入れたのは、この名分によるところが大きいとされます。義銀が用済みになると、信長は1561年に追放しました。

斯波の家は絶えたのか?

尾張守護としての斯波氏は義銀の追放で終わりました。ただし義銀自身はのちに津川と名乗って秀吉に仕え、子孫は江戸時代にも旗本として続いています。また斯波氏の分家の最上氏は出羽の戦国大名として続き、最上義光よしあきを出しました。

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参考にした資料