人物ページ / 1436〜1490年・室町幕府8代将軍

足利義政あしかがよしまさ

足利義政とは?

室町幕府8代将軍で、9歳で足利家を継ぎ13歳で将軍になったが政治は有力守護に任せ、弟・義視と子・義尚のどちらを跡継ぎにするかの争いが応仁の乱の火種の一つになり、乱の中で将軍職を8歳の義尚に譲って、晩年は東山の山荘で東山文化を育て、1490年に銀閣の完成を見ずに死んだ。

1441年、父・義教よしのりが殺され、兄も早世。1443年に9歳で足利家を継ぎ、1449年に13歳で将軍になります。実権は細川・山名・畠山・斯波が握っていました。
1459年、花の御所の地に新邸を建てて移ります。同じ年、京都は大水害と飢饉に襲われます。
1464年、男子のない義政は弟・義視よしみを後継にします。翌年、妻・日野富子が義尚よしひさを産み、二人の後見に細川勝元と山名宗全が付きます。
1467年、京都で東軍と西軍の戦いが始まります。1473年、義政は8歳の義尚に将軍職を譲り、1476年には花の御所が全焼します。乱は1477年に終わります。
1482年、東山に山荘の造営を始め、翌年移り住みます。1485年に東求堂を建て、同じ年に出家します。
1489年、観音殿(銀閣)に着工。同じ年に義尚が陣中で死に、翌1490年1月、義政も銀閣の完成を見ずに死にます。

9歳の当主——父は殺され、将軍になっても実権は大名にあった

1436年、足利義政は6代将軍・義教の子として生まれた。1441年、父・義教は播磨の守護・赤松満祐に殺される(嘉吉の変)。兄の義勝よしかつが7代将軍になったが、まもなく早世し、1443年、義政がわずか9歳で足利家を継いだ。将軍に任じられたのは1449年、13歳のときだった。

幕府の実権 細川・山名・畠山・斯波が握っていた

1443年に義政が家を継いでからの幕府は、細川・山名・畠山・斯波などの有力な守護が動かしていた。義政は成長すると幕府と将軍権力の強化をねらったが、実権を握る守護も、身近に仕える側近たちも義政の言うことを聞かず、政治は混乱した。

嘉吉の変 将軍が家臣に殺されるという前例

義教は3代義満を理想として幕府を引き締め、その強権ぶりは「万人恐怖」と呼ばれた。1441年に殺されたあと、赤松満祐の討伐で功を挙げたのが山名宗全だった。この事件を境に、幕府の体制は揺らぎ始めた。

花の御所——新邸に移った年、京都は飢饉に沈んだ

3代義満が室町に築いた邸宅は、庭の花の美しさから「花の御所」と呼ばれ、室町幕府の名の由来になった。1459年、義政はこの地に新邸を上棟し、11月に移り住む。

1459年 水害と飢饉に、幕府は何一つ手を打てなかった

同じ1459年は新春から天候不順が続き、9月に山城と大和を大暴風雨が襲った。鴨川が氾濫して無数の溺死者が出て、水害のあとには飢饉が来た。洛中の飢死者は8万余と伝わり、都は死臭の立ちこめる葬地と化した。米の値は高騰し、各所で徳政を求める一揆が起きた。しかし幕府は、この事態に何一つ手を打てなかった。

隠居の願い 政治を大名に任せ、風雅に生きようとした

政治を細川・山名・畠山らに任せた義政は、隠居して風雅の道に生きることを考えるようになった。将軍になって10年が過ぎたころだった。ただし妻・日野富子との間に生まれた嫡子は幼くして死んでいて、跡を継がせる子はいない。跡継ぎのいないまま隠居はできず、将軍家では相続の問題が持ち上がっていた。

後継問題——弟に約束した翌年、子が生まれた

1464年、義政は浄土寺の門跡(皇族や将軍家の子が務める、格式の高い寺の住職)になっていた弟・義尋ぎじんを還俗(僧をやめて俗人に戻ること)させて義視と名乗らせ、次の将軍を約束して、細川勝元を後見に据えた。もし男子が生まれても僧にする、という約束だった。

1465年 義尚の誕生で、情勢は一変した

翌1465年11月、妻の日野富子が男子・義尚を産む。しかし義尚が僧にされることはなく、将軍家の跡継ぎの例にならって、義政の側近・伊勢貞親さだちかの屋敷で育てられた。富子は山名宗全を後見に頼み、細川勝元と山名宗全という幕府の二大勢力が、義視と義尚をそれぞれ担いで対立する形になった。同じころ畠山家でも家督争いが起き、畠山義就は山名を、畠山政長はたけやま まさながは細川を頼った。対立は斯波家の家督争いや、守護と在地の武士どうしの利害とも結びついて深まっていった。

1466年 側近の伊勢貞親が追放された

1466年9月、幕府の政所執事(幕府の財政を預かる役所の長)だった伊勢貞親が幕府を追われた(文正の政変)。貞親が義視を失脚させようと画策したことに、山名宗全方が怒った。山名方は兵を挙げて貞親派を倒そうと動き、それを察知した貞親らは9月6日に京都から逃げた。幕府は伊勢氏の一党を追放した。翌1467年、貞親は勝元の働きかけで呼び戻される。

応仁の乱——将軍のまま御所に籠り、乱の中で子に譲った

1467年、幕府の実権をめぐる細川勝元と山名宗全の争いが、将軍家と畠山・斯波の後継争いを巻き込んで、京都で東軍と西軍の戦いになった。東軍は義政のいる花の御所を本陣にし、御所は土塁と堀で囲まれた。義政の弟・義視は当初この東軍にいたが、1468年11月に東軍の陣を離れて西軍の諸大名に迎えられ、西軍のもとで将軍と呼ばれるようになった。

1467年6月 「山名を討て」と命じた

開戦当初はあいまいな態度だった義政は、1467年6月に山名討伐を命じ、西軍の諸将に降参を呼びかけた。将軍の名は東軍のものになり、西軍にいた管領・斯波義廉しば よしかどは動揺した。ただし義政が命じても戦いは終わらず、8月に大内政弘(周防=今の山口県を本拠とする大名)が西軍に加わって、京都は膠着した。

1473年12月 8歳の義尚に将軍職を譲った

両大将の細川勝元と山名宗全が相次いで死んだ1473年の12月、義政は8歳の義尚に将軍職を譲った。8歳の将軍に政務は任せられず、義政と富子らが後見した。義政は将軍職を退いたあとも、大御所(将軍職を譲った前の将軍)として幕府の実権を握り続けた。

1476年 花の御所が焼け落ちた

義政は1474年、花の御所を義尚に渡して、今出川の小川御所に移った。1476年、花の御所は近くの土倉(金貸し)や酒屋への放火で全焼し、隣り合う内裏や公家・武家の屋敷も多くが焼けた。1488年には、その焼け跡が夜盗の集まる場所になっていた。

1477年11月 西軍の大名が領国へ帰り、乱は終わった

義政は1476年、大内政弘に東西の和平を取り持つよう命じた。翌1477年10月、将軍・義尚が政弘に周防など4か国の守護職を認めると、11月に政弘ら西軍の大名は領国へ帰った。同じ年、畠山義就も河内へ兵を引き、京都を主戦場にした11年の戦いは止んだ。翌1478年7月、義政は義視と和解した。

東山殿——焼けた寺の跡に、山荘を建てた

1482年、義政は東山の如意ヶ嶽にょいがたけのふもとに山荘の造営を始めた。応仁の乱で焼けた天台宗の名刹・浄土寺の跡で、義政がこの地を好んだという。翌1483年に移り住み、この東山殿を中心に東山文化が開花する。

庭園 苔寺を模して、自ら庭を作った

義政は庭園を中心にした山荘を意図し、最も好んでいた西芳寺(苔寺)の庭園を模して、移り住んだあとは自ら指揮して各地から植木や庭石を運ばせて作庭したという。常御所・禅室・会所・泉殿など多くの殿舎を池を囲むように配し、東山殿は文化人の集まる場になった。義政が数多く作った庭園のうち、現在に残る唯一の遺構だ。ただし戦国時代の戦火で荒れたものを1615年以降に修築したもので、今の庭の大半は江戸時代の姿である。

1485年・東求堂 四畳半の書斎が、和室の原型になった

1485年、持仏堂と書斎を兼ねた東求堂とうぐどうが建った。その一室、四畳半の同仁斎どうじんさいにある付書院と違棚は現存する最古のもので、書院造の源流と位置づけられている。東求堂はもとは阿弥陀三尊を本尊とする阿弥陀堂で、当初は観音殿の近くにあり、のちに今の場所へそのままの形で移されたと考えられている。同じ年、義政は出家した。死の5年前だった。

銀閣——着工の翌年、完成を見ずに死んだ

1489年、義政は東山殿で最後の建物になる観音殿(銀閣)の造営を始めた。同じ年の3月、将軍・義尚が近江の陣中で死んだ。義尚は1487年9月、幕府の命に背いて寺社や幕府近臣の所領を奪った近江守護・六角高頼たかよりを討つため自ら出陣し、陣を鈎まがりへ進めて攻めていた最中だった。次の将軍は弟・義視の子の義材よしき(のちの義稙)で、義政の死の半年後、1490年7月に就任した。

1490年1月 観音殿は、まだ建設途中だった

1490年(延徳2年)1月、義政は観音殿の完成を見ることなく死んだ。銀箔を貼る計画があったともいわれるが、詳しいことは分かっておらず、銀箔は結局貼られていない。遺命により東山殿は禅寺に改められ、法号「慈照院喜山道慶」にちなんで慈照寺と名付けられた。義政の墓は相国寺にある。

「銀閣」の名 金閣に対する呼び名は江戸時代から

観音殿は宝形造・柿葺こけらぶきの二層の楼閣で、1階は書院造、2階は禅宗様の仏堂である。江戸時代以降、3代義満の建てた金閣に対してこの観音殿は銀閣と呼ばれるようになり、寺そのものも銀閣寺と通称されるようになった。銀閣と東求堂は国宝、庭園は特別史跡・特別名勝で、慈照寺は世界遺産に登録されている。

義政が残したもの——書院造の源流と、裁かなかった将軍

義政は将軍として戦乱を止められなかった一方、東山殿を中心に、庭園・書院・座敷飾り・芸能の文化を育てた。政治の失敗と文化の成熟は、同じ人物の同じ時期に起きている。乱で上京の町の大半が焼け、花の御所の焼け跡も残ったままの時期に、義政は東山で大規模な造営を進めた。

東山文化 今の和室は、ここから始まった

義政のもとで育った東山文化は、今の和室につながった。四畳半に座敷飾りを備えた同仁斎の造りは、のちの和室の原型となった。幕府の儀礼や行事の場である会所の座敷飾りや、芸能の文化も、この時期に洗練され発展した。将軍の政治権力が大きく落ちた時代に、文化面での権威は保たれた。

将軍の力 裁かない将軍のもとで、大名が戦った

義政は家督争いを裁くことも、飢饉に手を打つこともできず、後継を弟に約束した翌年に子が生まれて自ら火種を作った。応仁の乱を義政一人のせいにはできないが、将軍が争いを裁かなくなったとき、幕府を動かす実権をめぐって大名が戦う時代が始まった。

足利義政の疑問に答える

銀閣寺と東山殿は同じもの?

同じ場所だ。義政が1482年に造営した山荘・東山殿を、死後に遺命で禅寺にしたものが慈照寺で、その中の観音殿が銀閣と呼ばれたことから、寺全体が銀閣寺と通称されるようになった。銀閣は義政が死んだときまだ建設途中だった。

花の御所は今のどこ?

京都市上京区、上立売通・今出川通・烏丸通・室町通に囲まれた一帯で、東西一町・南北二町の規模だった。室町通今出川の東北角に「足利将軍室町第址」の石標が立ち、大聖寺の境内にも「花乃御所」の石標がある。2002年には同志社大学の構内で16世紀前半の室町殿とみられる遺構が発掘された。

今の銀閣寺で、義政の時代のものは?

銀閣と東求堂は義政の時代の建物で、どちらも国宝だ。庭園は江戸時代に修築されて今の姿になり、本堂前の砂盛り「銀沙灘」と「向月台」も江戸時代に付け加えられ、今の高さになったのは明治20年代だ。義政の墓は相国寺の墓地にあり、焼香のための香火所は塔頭の慈照院にある。

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参考にした資料