室町幕府 / 八代将軍 / 応仁の乱

足利義政

室町幕府八代将軍。将軍家と有力守護の対立が重なった応仁の乱の時代に将軍を務めました。乱の原因を義政一人に帰すことはできませんが、後継問題と幕府の統率の弱まりを考えるうえで欠かせない人物です。

1436–1490年八代将軍室町文化

将軍と有力守護の均衡が崩れる時代

義政が将軍となった室町幕府では、細川・山名・畠山・斯波などの有力守護が京都政治に大きく関わっていました。義政は将軍権力の強化を目指しますが、守護家どうしの対立を完全に抑えることはできませんでした。

応仁の乱は、将軍家の後継問題だけで始まったわけではありません。畠山氏・斯波氏の家督争い、細川勝元と山名宗全の勢力対立が絡み合い、京都の政治秩序が崩れます。

後継問題と、応仁の乱

義政は弟の義視を後継に定めた後、実子の義尚が生まれたことで将軍家の後継をめぐる問題を抱えます。この問題は有力守護の対立と結び付き、乱の背景の一つになります。

京都が長期にわたって戦場となったことで、室町幕府の政治的な力は大きく低下しました。一方で、将軍や朝廷の権威が直ちに消えたわけではなく、その後の戦国大名も京都の権威を意識し続けます。

応仁の乱は、将軍家の後継問題だけで起きていない

義政は早くから後継者に恵まれず、弟の義視を後継に迎えた後に実子の義尚が生まれました。この将軍家の問題は重要ですが、それだけで11年の戦乱を説明することはできません。畠山氏と斯波氏の家督争い、管領・細川勝元と有力守護・山名宗全の対立、京都に集まった軍勢の利害が重なって1467年に戦いが始まりました。

将軍家

義視と義尚のどちらを次代に置くかが、諸大名の陣営選択と結びつきました。ただし両者の立場も戦中に変化します。

畠山・斯波両家

有力守護家の内部対立は、京都で武力衝突が起きる直接の火種でした。東西両軍は複数の家督争いを抱え込みます。

細川と山名

幕府内で大きな勢力を持つ二人が東軍・西軍の中心になります。二人は婚姻関係もあり、単純な宿敵として始まったわけではありません。

将軍・義政

義政は争いを収束させる権威を示せず、戦乱中も陣営や後継をめぐる判断が揺れました。幕府の調整力低下が全国へ波及します。

政治の失敗と東山文化を、別々にしない

義政は将軍として戦乱を止められなかった一方、東山山荘を中心に、建築・庭園・茶・花・書院の文化を支えました。現在の銀閣寺につながる東山山荘の造営は1482年に始まります。文化を愛したため政治をしなかった、と一言で片づけるより、幕府の財政や京都の復興が十分でない時期にも大規模な造営を進めたことまで含めて評価する必要があります。

1473年に義尚へ将軍職を譲った後も、義政の政治的影響はすぐには消えませんでした。1489年に義尚が近江出陣中に没し、翌1490年に義政も死去します。後継の不安定さはその後も続き、細川政元が将軍を交代させる明応の政変へつながります。

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参考にした資料