人物ページ / 1430年〜1473年・室町幕府の管領かんれい・応仁の乱の東軍

細川勝元ほそかわ かつもと

細川勝元は、1467年に始まった応仁の乱で東軍を率いた室町幕府の管領です。東軍の本陣になった花の御所も、勝元が建てた龍安寺りょうあんじも、今の京都市にあります。勝元と山名宗全やまなそうぜんは、もともと義理の親子でした。将軍の跡継ぎ、畠山家の家督、斯波しば家の家督という別々の争いが重なるなかで、二人はそれぞれ別の陣営の中心に立ちます。

細川勝元とは?

室町幕府の管領を務め、1467年に始まった応仁の乱で花の御所を本陣として東軍を率いた武将。

管領の家に生まれます。将軍に次ぐ役職である管領は、細川・斯波・畠山の三つの家から出て、当主が交代で務めました。勝元は生涯に複数回この職に就きます。
徳大寺家の別荘を譲り受けて龍安寺を建てます。今の京都市右京区にあり、世界文化遺産に含まれています。
8代将軍の足利義政が弟を還俗させて義視よしみと名乗らせ、次の将軍職を約束したうえで、その後見に勝元を据えます。翌年、義政の子の義尚よしひさが生まれて情勢が変わります。
畠山家と斯波家でも家督争いが起き、勝元は畠山政長はたけやま まさながと斯波義敏よしとしを、山名宗全は畠山義就よしなりと斯波義廉よしかどを支えます。二つの陣営の輪郭がはっきりします。
1月、上御霊社かみごりょうしゃで畠山家の両派が戦い、これが応仁の乱の発端になります。5月26日午前4時、東軍が戦端を開きました。
山名宗全と細川勝元が相次いで死去します。乱が終わったのは1477年でした。

管領の家——将軍に次ぐ役職を、三つの家が交代で務めた

細川勝元は1430年に生まれた。管領(将軍に次いで幕府の政務を仕切る役)を務めた、位の高い武士である。管領は細川・斯波・畠山の三つの家から出て、当主が交代で務めた。勝元は生涯に複数回、この職に就いている。

三つの家 管領を出す家で、家督の争いが起きた

管領を出した三家のうち、勝元が生きた時期には畠山家と斯波家の二つで家督(家の跡目と財産)の争いが起き、勝元はその両方に関わることになった。応仁の乱の発端も、将軍足利義政の後継問題と、この二家の家督争いが重なったところにある。

1464年 複数回、管領の職に就いた

1464年の時点で勝元はすでに「前管領」と呼ばれており、それより前に一度、管領の職に就いていたことが分かる。1467年に始まった応仁の乱で東軍を率いたときは、管領を出す家の当主としてであった。幕府のもう一方の実力者が山名宗全で、応仁の乱はこの二人の対立を軸に、将軍家と管領家である斯波・畠山の内紛が絡んで起きた。

龍安寺——1450年、譲り受けた別荘を寺にした

宝徳2年(1450年)、勝元は公家の徳大寺とくだいじ家の別荘を譲り受け、それを寺に改めて龍安寺とした。場所は今の京都市右京区で、応仁の乱が始まる17年前にあたる。

武と芸 勇猛な評判の一方で、芸術にも通じていた

勝元は勇猛な大物軍人として評判を取ったが、芸術にも通じていた。当時の武士には芸事をたしなむ者が多く、勝元もその一人である。勝元の邸宅も、広大な庭園に囲まれていたと考えられている。

乱と、そのあと 焼けた寺を、子が戻していった

龍安寺は今の京都市右京区龍安寺御陵下町にあり、世界文化遺産「古都京都の文化財」に含まれている。この寺と庭は応仁の乱の最中に破壊されたが、後に勝元の子の細川政元が、かつての姿へ戻すため修復を続けた。

跡継ぎの後見——1464年、将軍の弟を託された

8代将軍の足利義政には男子がいなかった。寛正かんしょう5年(1464年)、義政は僧になっていた弟を還俗(僧をやめて俗人に戻ること)させて義視と名乗らせ、次の将軍職を約束したうえで、その後見に前管領の勝元を据えた。このとき、義政に男子が生まれても僧にする、という約束が交わされている。

翌年11月、義政の夫人の日野富子ひのとみこが義尚を産み、情勢が変わった。義尚は将軍家の跡継ぎの例に従って伊勢貞親いせさだちかの屋敷で育てられ、富子は山名宗全を義尚の後見に頼んだ。勝元は義視を支えて富子とその兄の日野勝光かつみつを牽制しようとし、日野一族や義尚の補佐役である山名宗全らとの対立が深まっていく。

二つの陣営——畠山と斯波の家督争いが、重なった

同じころ、管領を出す二つの家でも家督争いが起きていた。畠山家では、持国もちくにが甥の政長を養子にしたあとで、後から生まれた実子の義就に家督を譲ったため、政長と義就の両派が争うことになった。山名宗全は義就方を、勝元は政長方を支援する。斯波家では義廉と義敏の対立が深まり、義廉は宗全を、義敏は勝元をそれぞれ頼った。こうして文正元年(1466年)ごろには、二つの陣営の輪郭がはっきりと現れてくる。

頼られる先 二人が、別々の陣営に分かれた理由

勝元と宗全が別々の陣営の中心に立ったのは、将軍家、畠山家、斯波家という三つの争いが別々に進み、そのたびに争う双方が頼る先が二人に振り分けられていったからである。

武田氏の場合 遠い海の利害が、付く先を決めた

こうした陣営分けは、京都の外にも及んだ。安芸の一部を任された守護(国ごとに置かれた幕府の長官)の武田氏が細川の陣営に付いたのには、京都から遠い事情があった。瀬戸内海地域の支配や対外貿易をめぐって大内氏と競合していた細川氏が、大内氏の本拠である周防すおうに隣り合う武田氏を積極的に支援していたためである。

東軍を率いる——花の御所を本陣に、先に戦端を開いた

1467年1月、畠山政長は管領の職を解かれ、屋形の明け渡しを命じられた。政長は自邸に火を放って上御霊社(今の京都市上京区の上御霊神社)の森に陣を取り、翌日、畠山義就の軍がここに押し寄せる。政長の軍は勝元の邸へ逃れた。この戦いが、応仁の乱の発端になった。

5月に入ると両陣営は続々と京都に兵を集め、5月26日午前4時、東軍が戦端を開いた。細川方は花の御所を本陣として東軍と呼ばれ、その西側の宗全邸を本陣とした山名方が西軍と呼ばれた。両軍の兵は合わせて二十数万に及んだと伝わる。

東陣と西陣 勝元が制した側が、東陣と呼ばれた

勝元の軍は都の北東部を制し、山名方は西側を押さえた。細川方が制した地域は後に東陣、山名方が占領した地域は西陣と呼ばれるようになる。西陣はのちに織物で知られる地名になり、今も京都市上京区にその名が残っている。

1468年9月 船岡山城を、留守に攻め取った

応仁2年(1468年)9月初旬、勝元は西軍の留守を狙って船岡山ふなおかやま城を攻略した。ただし船岡山城は両軍の本拠から離れているうえに造りも簡素だったため、その後は陣地として活用されなかった。

二人の大将の死——東軍と西軍の大将が、相次いで世を去った

文明元年(1469年)に戦局は地方へ広がり、両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せたが、合戦は膠着したままだった。文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで死去する。東軍と西軍の大将が二人とも欠けた。それでも戦闘は続いた。

1477年 大名が国へ帰って、乱が終わった

文明9年(1477年)、畠山義就が河内かわちに兵を引き、大内政弘おおうちまさひろも本拠地の周防に帰り、他の大名も領国に引き揚げたため、乱が終結した。開戦の年から数えて11年である。

乱ののち 幕府は、全国への影響力を失った

内乱ののち、室町幕府は全国的な影響力を失い、各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えることになった。京都では、寺社や公家の邸宅はもちろん、上京の町の大半が焼失している。

細川勝元の疑問に答える

勝元と宗全は、最初から敵だった?

最初から敵だったわけではない。対立が深まったのは、将軍家の跡継ぎ、畠山家の家督、斯波家の家督という三つの争いが同じ時期に重なり、争う双方が頼る先が勝元と宗全に振り分けられていったためである。婚姻の中身、たとえば誰の娘を迎えたのかまでは、今回参照した資料では確認できない。

応仁の乱が始まった日は、いつ?

1467年1月に上御霊社で起きた戦いが発端である。畠山義就の軍が政長の陣を攻めた日は、複数の資料で正月18日とされている。その前段にあたる、政長が管領を解かれ上御霊社に陣を取った日については、正月7日とする資料と17日とする資料があり、書き方が分かれる。

勝元が死んだら、乱は終わった?

終わっていない。1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで死去したあとも戦闘は続き、乱が終わったのは1477年である。勝元と宗全の対立は、足利将軍家をはじめ管領家である畠山・斯波両家の家督争いや、守護や在地の武士の利害関係と結びついており、畠山義就が河内へ、大内政弘が本拠の周防へ兵を引き、他の大名も領国へ引き揚げるまで解けなかった。

勝元にゆかりの場所は、今どうなっている?

上御霊神社の前には、応仁の乱勃発地を示す石標が立つ。山名宗全の邸宅跡には碑があり、その一帯は邸宅にちなんで山名町と呼ばれる。京都市考古資料館の前には、西陣の由緒と織物業の沿革を記した碑がある。一方、勝元の邸宅跡には、そこを示す正式な記念碑はない。

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参考にした資料