細川勝元とは?
室町幕府の管領を務め、1467年に始まった応仁の乱で花の御所を本陣として東軍を率いた武将。
管領の家——将軍に次ぐ役職を、三つの家が交代で務めた
細川勝元は1430年に生まれた。管領(将軍に次いで幕府の政務を仕切る役)を務めた、位の高い武士である。管領は細川・斯波・畠山の三つの家から出て、当主が交代で務めた。勝元は生涯に複数回、この職に就いている。
三つの家 管領を出す家で、家督の争いが起きた
管領を出した三家のうち、勝元が生きた時期には畠山家と斯波家の二つで家督(家の跡目と財産)の争いが起き、勝元はその両方に関わることになった。応仁の乱の発端も、将軍足利義政の後継問題と、この二家の家督争いが重なったところにある。
1464年 複数回、管領の職に就いた
1464年の時点で勝元はすでに「前管領」と呼ばれており、それより前に一度、管領の職に就いていたことが分かる。1467年に始まった応仁の乱で東軍を率いたときは、管領を出す家の当主としてであった。幕府のもう一方の実力者が山名宗全で、応仁の乱はこの二人の対立を軸に、将軍家と管領家である斯波・畠山の内紛が絡んで起きた。
龍安寺——1450年、譲り受けた別荘を寺にした
宝徳2年(1450年)、勝元は公家の徳大寺家の別荘を譲り受け、それを寺に改めて龍安寺とした。場所は今の京都市右京区で、応仁の乱が始まる17年前にあたる。
武と芸 勇猛な評判の一方で、芸術にも通じていた
勝元は勇猛な大物軍人として評判を取ったが、芸術にも通じていた。当時の武士には芸事をたしなむ者が多く、勝元もその一人である。勝元の邸宅も、広大な庭園に囲まれていたと考えられている。
乱と、そのあと 焼けた寺を、子が戻していった
龍安寺は今の京都市右京区龍安寺御陵下町にあり、世界文化遺産「古都京都の文化財」に含まれている。この寺と庭は応仁の乱の最中に破壊されたが、後に勝元の子の細川政元が、かつての姿へ戻すため修復を続けた。
跡継ぎの後見——1464年、将軍の弟を託された
8代将軍の足利義政には男子がいなかった。寛正5年(1464年)、義政は僧になっていた弟を還俗(僧をやめて俗人に戻ること)させて義視と名乗らせ、次の将軍職を約束したうえで、その後見に前管領の勝元を据えた。このとき、義政に男子が生まれても僧にする、という約束が交わされている。
翌年11月、義政の夫人の日野富子が義尚を産み、情勢が変わった。義尚は将軍家の跡継ぎの例に従って伊勢貞親の屋敷で育てられ、富子は山名宗全を義尚の後見に頼んだ。勝元は義視を支えて富子とその兄の日野勝光を牽制しようとし、日野一族や義尚の補佐役である山名宗全らとの対立が深まっていく。
二つの陣営——畠山と斯波の家督争いが、重なった
同じころ、管領を出す二つの家でも家督争いが起きていた。畠山家では、持国が甥の政長を養子にしたあとで、後から生まれた実子の義就に家督を譲ったため、政長と義就の両派が争うことになった。山名宗全は義就方を、勝元は政長方を支援する。斯波家では義廉と義敏の対立が深まり、義廉は宗全を、義敏は勝元をそれぞれ頼った。こうして文正元年(1466年)ごろには、二つの陣営の輪郭がはっきりと現れてくる。
東軍を率いる——花の御所を本陣に、先に戦端を開いた
1467年1月、畠山政長は管領の職を解かれ、屋形の明け渡しを命じられた。政長は自邸に火を放って上御霊社(今の京都市上京区の上御霊神社)の森に陣を取り、翌日、畠山義就の軍がここに押し寄せる。政長の軍は勝元の邸へ逃れた。この戦いが、応仁の乱の発端になった。
5月に入ると両陣営は続々と京都に兵を集め、5月26日午前4時、東軍が戦端を開いた。細川方は花の御所を本陣として東軍と呼ばれ、その西側の宗全邸を本陣とした山名方が西軍と呼ばれた。両軍の兵は合わせて二十数万に及んだと伝わる。
東陣と西陣 勝元が制した側が、東陣と呼ばれた
勝元の軍は都の北東部を制し、山名方は西側を押さえた。細川方が制した地域は後に東陣、山名方が占領した地域は西陣と呼ばれるようになる。西陣はのちに織物で知られる地名になり、今も京都市上京区にその名が残っている。
1468年9月 船岡山城を、留守に攻め取った
応仁2年(1468年)9月初旬、勝元は西軍の留守を狙って船岡山城を攻略した。ただし船岡山城は両軍の本拠から離れているうえに造りも簡素だったため、その後は陣地として活用されなかった。
二人の大将の死——東軍と西軍の大将が、相次いで世を去った
文明元年(1469年)に戦局は地方へ広がり、両軍とも大軍を率いて京都に押し寄せたが、合戦は膠着したままだった。文明5年(1473年)、山名宗全と細川勝元が相次いで死去する。東軍と西軍の大将が二人とも欠けた。それでも戦闘は続いた。
1477年 大名が国へ帰って、乱が終わった
文明9年(1477年)、畠山義就が河内に兵を引き、大内政弘も本拠地の周防に帰り、他の大名も領国に引き揚げたため、乱が終結した。開戦の年から数えて11年である。
乱ののち 幕府は、全国への影響力を失った
内乱ののち、室町幕府は全国的な影響力を失い、各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えることになった。京都では、寺社や公家の邸宅はもちろん、上京の町の大半が焼失している。
細川勝元の疑問に答える
勝元と宗全は、最初から敵だった?
最初から敵だったわけではない。対立が深まったのは、将軍家の跡継ぎ、畠山家の家督、斯波家の家督という三つの争いが同じ時期に重なり、争う双方が頼る先が勝元と宗全に振り分けられていったためである。婚姻の中身、たとえば誰の娘を迎えたのかまでは、今回参照した資料では確認できない。
応仁の乱が始まった日は、いつ?
1467年1月に上御霊社で起きた戦いが発端である。畠山義就の軍が政長の陣を攻めた日は、複数の資料で正月18日とされている。その前段にあたる、政長が管領を解かれ上御霊社に陣を取った日については、正月7日とする資料と17日とする資料があり、書き方が分かれる。
勝元が死んだら、乱は終わった?
終わっていない。1473年に山名宗全と細川勝元が相次いで死去したあとも戦闘は続き、乱が終わったのは1477年である。勝元と宗全の対立は、足利将軍家をはじめ管領家である畠山・斯波両家の家督争いや、守護や在地の武士の利害関係と結びついており、畠山義就が河内へ、大内政弘が本拠の周防へ兵を引き、他の大名も領国へ引き揚げるまで解けなかった。
勝元にゆかりの場所は、今どうなっている?
上御霊神社の前には、応仁の乱勃発地を示す石標が立つ。山名宗全の邸宅跡には碑があり、その一帯は邸宅にちなんで山名町と呼ばれる。京都市考古資料館の前には、西陣の由緒と織物業の沿革を記した碑がある。一方、勝元の邸宅跡には、そこを示す正式な記念碑はない。
参考にした資料
- 京都市「都市史14 応仁・文明の乱」(管領細川勝元の東軍と山名宗全の西軍・1464年に義視の後見に前管領勝元を据えたこと・義尚の誕生と伊勢貞親邸での養育・対立が将軍家と畠山斯波両家の家督争いや守護や在地武士の利害と結びついたこと・1468年9月の船岡山城攻略・1469年に戦局が地方へ広がったこと・1473年の両大将の死・1477年の終結と幕府の影響力の喪失・上京の町の焼失・西陣の地名)
- 京都市上京区「応仁の大乱」(義政の弟を還俗させ次期将軍職を約束して勝元を後見に据えたこと・富子の義尚出産と宗全を後見に頼んだこと・畠山義就が山名を政長が細川を頼ったこと・正月7日の政長失脚と18日早朝の上御霊社の奇襲・政長軍が細川邸へ逃れたこと・東軍細川勢の花の御所と西軍山名方の宗全邸)
- 福井県『福井県史』通史編2「二大陣営の形成と乱の勃発」(山名持豊と細川勝元の対立を軸に将軍家と斯波畠山の内紛が絡んだこと・斯波義廉と義敏の対立と頼った先・畠山持国が甥の政長を養子にした経緯・勝元が義視を支持し富子と日野勝光を牽制したこと・1466年ごろの二大陣営の形成・武田氏が細川陣営に付いた理由・政長の管領解任と正月17日の布陣、翌18日の戦い・花の御所を本陣とする東軍と西側の持豊邸を本陣とする西軍・両軍二十数万・5月26日午前4時に東軍が戦端を開いたこと)
- 国土交通省 地域観光資源の多言語解説文データベース「細川勝元邸跡」(生没年1430〜1473年・将軍に次ぐ役職を務めた位の高い武士であること・山名宗全が義理の父であること・まず細川が攻撃を仕掛けたこと・細川の軍が都の北東部を制し東陣、山名の地が西陣と呼ばれたこと・芸術に通じていたこと・龍安寺と庭の被災と息子による修復・邸宅跡に正式な記念碑がなく広大な庭園に囲まれていたと考えられていること)
- 京都府「世界遺産(世界文化遺産)龍安寺」(宝徳2年〈1450年〉に細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受けて建立したこと・京都市右京区龍安寺御陵下町という所在地・世界文化遺産であること)
- 京都市 いしぶみデータベース「山名宗全邸址」(細川勝元1430〜73年・山名宗全1404〜73年の生没年・宗全が義尚を、勝元が義視を担いで対立したこと・勝元が花の御所に陣を敷いたこと・宗全邸跡の碑と山名町の由来)
- 京都市 いしぶみデータベース「応仁の乱勃発地」(乱が管領畠山・斯波両家の家督争いと将軍足利義政の後継問題に端を発したこと・正月18日の上御霊社の戦場地・上御霊神社前に立つ石標)
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「朝倉氏の歴史」(畠山義就が管領畠山政長を実力で排除したことをきっかけに、細川勝元の東軍と山名宗全を盟主とする西軍が京中で対決したこと)