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鎌倉公方かまくらくぼう

鎌倉公方とは?

鎌倉公方とは、室町幕府が関東を治めるために鎌倉に置いた役所「鎌倉府」の長官のことです。足利氏の世襲で約100年続きましたが、京都の幕府とたびたび衝突し、永享の乱で一度滅びます。遺児の成氏が復帰して鎌倉府は再興されますが、その成氏が享徳の乱で鎌倉を追われ、鎌倉公方は消滅しました。成氏は古河に移り、古河公方として続きます。

14世紀半ば、足利尊氏が子の足利基氏を鎌倉に置き、鎌倉府が関東を治めます。
2代から4代まで、代々京都の幕府と反目。1439年の永享の乱で4代持氏が討たれ、鎌倉府は一度滅びます。
持氏の遺児・成氏が1449年に復帰。しかし補佐役は父の仇である上杉氏のままで、火種はくすぶり続けます。
1454年、成氏が関東管領を殺して享徳の乱が始まり、翌1455年に鎌倉を追われて古河へ。鎌倉公方は消滅し、古河公方5代・約130年が始まります。

鎌倉府の設置——尊氏の子が「東の将軍役」を世襲した

1336年、足利尊氏は京都を中心に幕府を開いた。それまで武家の都だった鎌倉には、関東を治めるための役所「鎌倉府」を置く。長官には自分の子を据え、京都の将軍家と鎌倉の長官の家は、ここで二つに分かれた。

京都 三男・足利義詮よしあきらの家=将軍家

尊氏の三男・義詮が2代将軍を継ぎ、その子孫が代々の室町将軍になる。京都に住んで朝廷と向き合い、全国の武家を束ねる足利の本家で、鎌倉に分家を置いて関東を任せる側でもあった。

鎌倉 四男・足利基氏もとうじの家=鎌倉公方

尊氏の四男・基氏が初代の鎌倉公方になり、その子孫が世襲した。将軍と同じ血筋でありながら、関東を任された分家になる。補佐役には関東管領が付いた。

室町幕府との衝突——2代から4代まで反目を重ね、鎌倉府は一度滅びた

将軍と同じ血筋の分家、という立場そのものが火種だった。

  • 2代・足利氏満うじみつ——幕府の政変に加担しかけた。京都で起きた幕府内の政変(康暦の政変)に乗じようとしたとされ、重臣の上杉憲春のりはるが命をかけて諫めたことで思いとどまった。
  • 3代・足利満兼みつかね——反乱に加担して兵を出した。周防の大内氏が幕府に反乱を起こすと(応永の乱)、これに応じて武蔵の府中まで兵を進めた。大内氏が敗死したため、幕府に謝って収めた。
  • 4代・足利持氏もちうじ——将軍の座を望んだ。1416年、関東管領だった上杉禅秀ぜんしゅうの反乱を鎮めたのち、将軍の地位を望んだ唯一の鎌倉公方になる。幕府との対立は年を追って深まり、ついに武力での衝突に至った。

永享の乱 鎌倉府、一度目の滅亡

1438年、幕府との対立が頂点に達した持氏は、それを咎めた関東管領・上杉憲実のりざねとも決裂した。幕府は憲実を支持して兵を送り、翌1439年、持氏は鎌倉の永安寺ようあんじで自害する(永享の乱)。長官を失った鎌倉府は、ここで一度滅びた。

史料 持氏の将軍への望みは、花押かおうに残っている

鎌倉公方の家には代々受け継ぐ花押(サイン)の型があるが、持氏だけがそれを使わなかった。しかも1426年ごろ、将軍家の型に近い花押へ改めている。この年は将軍・足利義量よしかずが若くして病死した年で、持氏が将軍職を強く望み始めた時期と考えられている。

鎌倉府の再興——遺児の成氏が復帰したが、火種は残った

鎌倉府が滅びたままでは関東が収まらない。1449年、幕府は生き残っていた持氏の遺児・足利成氏しげうじを鎌倉公方として復帰させた。

復帰の理由 関東を束ねるには、公方の血筋が要った

復帰を決めたのは幕府自身になる。幕府にとって関東は鎌倉府を通して治める土地で、長官の空席は関東の不安定そのものだった。関東の武士たちを束ねるには鎌倉公方の血筋が要り、幕府は自分たちが討った持氏の子であっても、長官に戻すしかなかった。

くすぶる火種 父の仇が、そのまま補佐役に付いた

成氏にとって、父を見限って幕府側についた上杉氏は仇にあたる。その上杉氏が、復帰後も関東管領として補佐役に付いた。復帰からほどなく、上杉方の家臣が成氏を襲う事件も起きている(江の島合戦)。公方と管領の間に、火種は最初から埋まっていた。

古河公方へ——鎌倉公方は消え、家は川の向こうに続いた

1454年、成氏は関東管領・上杉憲忠のりただを殺害し、幕府・上杉方との28年の内戦が始まった(享徳の乱)。父・持氏に続き、2代続けて幕府と武力で衝突したことになる。翌1455年、幕府方に鎌倉を攻められた成氏は、下総の古河へ本拠を移した。鎌倉公方は、ここで消滅した。

そのあと、鎌倉と、鎌倉公方の「後継」を名乗った三つの家はこうなった。

消滅 鎌倉公方

成氏が鎌倉に戻ることは二度となく、幕府が送った代わりの公方も鎌倉には入れなかった。公方を失った鎌倉は急速に活気を失い、農業と漁業の村になっていく。武家の都としての鎌倉は、ここで終わった。

本家の続き 古河公方

成氏とその子孫。政氏まさうじ高基たかもと晴氏はるうじ義氏よしうじと5代・約130年続き、古河は「東国の都」と呼べる政治の中心になった。1482年の幕府との和睦(都鄙合体)で、幕府も古河公方を関東の主として認めた。子孫は江戸時代、喜連川藩として明治まで続く。

幕府の代替 堀越公方

幕府が新しい鎌倉公方として送った足利政知まさとも。戦乱で鎌倉に入れず、伊豆の堀越ほりごえにとどまった。1493年、北条早雲に滅ぼされる。

分家の自立 小弓公方

古河公方家から出た足利義明よしあきが、下総の小弓おゆみで自立した。「もう一人の関東の将軍」と称されたが、国府台の合戦で戦死した。

鎌倉公方の疑問に答える

鎌倉公方と関東管領は、どう違う?

鎌倉公方が鎌倉府の長官で、関東管領はその補佐役になる。ただし管領は上杉氏が世襲し、幕府とのつながりも持っていたため、公方が幕府とこじれると幕府側に立った。永享の乱の憲実、享徳の乱の憲忠がその例で、公方と管領の衝突は鎌倉府の歴史そのものになっている。

鎌倉にいた期間と、追われてからの期間はどちらが長い?

追われてからのほうが長い。鎌倉にいたのは基氏から成氏までの約100年で、古河に移ってからは5代・約130年続いた。鎌倉公方の家の歴史は、鎌倉を離れてからのほうが長いことになる。

現地に何か残っている?

鎌倉公方ゆかりの史跡は、鎌倉よりも武蔵側に残っている。さいたま市の清河寺せいがんじは、初代基氏が兄の菩提を弔うために建てたと伝わる寺になる。加須市には、永享の乱で死んだ父・持氏と兄の春王・安王を供養するために成氏が建てた供養塔が残る。

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参考にした資料