1456〜1519年(生年は諸説) / 小田原北条氏 初代・伊豆討入・相模統一

北条早雲(伊勢宗瑞)ほうじょう そううん(いせ そうずい)

北条早雲は、小田原北条氏の初代にあたる人物です。本名は伊勢盛時いせ もりとき、出家後の名は宗瑞そうずいで、本人は生涯「北条」を名乗っていません。室町幕府に仕えた伊勢氏の一族として駿河の今川家を支え、1493年に伊豆へ討ち入って韮山城を本拠としました。その後小田原城を手に入れ、相模を統一して、五代100年続く北条氏の土台を築きました。

本名は伊勢盛時 1493年 伊豆討入 韮山城・小田原城 「浪人からの下剋上」は見直し中

要点

  • 出身は幕府の伊勢氏。室町幕府の政所まんどころを代々務めた伊勢氏の一族で、備中(岡山県西部)の出身とする見方が有力。幕府とのつながりを持つ人物だった。
  • 今川家の内紛を収めて駿河に足場を得た。姉(または妹)が今川義忠の妻だった縁で、今川家の家督争いを収め、今川氏親を当主に立てた。
  • 1493年、伊豆へ討ち入った。堀越公方の足利茶々丸を追い、韮山城を本拠に伊豆を治めた。幕府内部の対立と結びついた動きだったと考えられている。
  • 小田原城を手に入れ、相模を統一した。大森氏から小田原城を奪い、1516年に三浦氏を滅ぼして相模をほぼ手中にした。
  • 本人は「北条」を名乗っていない。北条への改姓は子の氏綱の代。「北条早雲」は後世の呼び方である。
人物

何をした人物か

伊勢盛時は、室町幕府の実務を担った伊勢氏の一族として京都で生まれ育ち、幕府の役職にも就いていたとみられます。駿河の今川義忠に嫁いだ姉妹の縁から、義忠の死後に起きた今川家の家督争いに関わり、甥にあたる今川氏親を当主に立てました。その功で駿河東部の興国寺城を得て、東国に足場を築きます。

1493年、盛時は伊豆へ討ち入り、堀越公方の足利茶々丸を追って伊豆を手中にしました。これが北条氏の出発点です。かつては「素浪人が一国を奪った下剋上」と語られましたが、現在では幕府の将軍をめぐる対立と連動した、幕府側の人脈を持つ人物の行動として読み直されています。

伊豆を治めた盛時は韮山城を本拠とし、やがて相模の小田原城を大森氏から奪いました。1516年には三浦氏を滅ぼして相模をほぼ統一します。1519年、韮山城で死去。伊豆と相模という二国を子の氏綱に残しました。

年表

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  1. 011456年ごろ:誕生

    伊勢氏の一族として生まれる。生年は1432年説もあったが、近年は1456年説が有力。

  2. 021480年代:今川家を支える

    今川家の家督争いを収め、氏親を当主に立てる。駿河に足場を得る。

  3. 031493年:伊豆討入

    堀越公方を追い、伊豆を手中に。韮山城を本拠とする。

  4. 041495年ごろ:小田原城を奪う

    大森氏から小田原城を得る。時期には諸説ある。

  5. 051516年:三浦氏を滅ぼす

    相模をほぼ統一する。

  6. 061519年:死去

    韮山城で死去。家督は氏綱へ。

注意点

早雲を読むときに気をつけたいこと

  • 「北条早雲」は本人の名乗りではない。生前は伊勢盛時・伊勢宗瑞。北条の名字は子の氏綱が採用し、「早雲」は号に由来する後世の通称である。
  • 「浪人からの下剋上」は後世の像。江戸時代の軍記物などで広まった見方で、近年の研究では幕府政所の伊勢氏出身という出自が重視されている。
  • 生年・小田原奪取の年には諸説ある。生年は1432年説と1456年説、小田原城奪取も1495年説と1500年代説があり、断定はできない。
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参考にした資料