堀越公方とは?
堀越公方とは、鎌倉に入れないまま伊豆に御所を構えた、もう一つの鎌倉公方とその一族のことです。1457年に幕府が鎌倉公方として送り出した足利政知が、戦乱のため鎌倉まで行けず、伊豆国の堀越(今の静岡県伊豆の国市)にとどまったことから、そう呼ばれました。1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)の夜襲で御所を失い、三十六年で絶えます。
鎌倉に入れず——将軍が送った公方は、伊豆で止まった
関東は、京都の幕府に従う勢力と、これに対抗する勢力とが争い続けていた。将軍足利義政は関東を直接おさえるため、長禄元年(1457)、足利政知を鎌倉公方として関東へ送り出した。ところが政知は戦乱のために鎌倉まで行き着けず、伊豆国韮山の堀越に御所を構える。この地名から、政知は堀越公方と呼ばれるようになった。
なぜ送った 関東を手元に戻すための、幕府の一手だった
1457年に政知を送り出したのは、関東を直接支配したい将軍義政である。鎌倉公方はもともと関東を治める役だから、そこへ幕府方の人物を据えるための派遣だった。ただ、当の関東がその争いの最中だったため、送られた公方は任地に入れないまま伊豆で足を止めることになる。
続柄 政知と義政の間柄は、兄とも弟とも伝わる
1457年に送られた政知は、将軍義政の兄弟にあたる人物である。ただし資料によって兄とも弟とも書かれる。はっきりしているのは、関東の武家から立った公方ではなく、将軍家から直に下された人物だという一点である。
都風の御所——戻らないまま、庭に水を流していた
幕府と古河公方(関東に残った公方)の争いがのちに収まったあとも、政知は鎌倉へ戻らなかった。御所は伊豆に置かれたままで、公方の暮らしもそこで続く。その暮らしぶりは発掘でわかっている。
発掘 昭和五十七年からの調査で、園地を伴う遺構が出た
昭和57年(1982)から進められた発掘調査で、御所之内という地名の一帯に園地(庭を備えた一画)を伴う遺構が見つかった。江戸時代の地誌『豆州志稿』も、伊豆北条・堀越の御所之内あたりをその地としていた。規模と伝承の両方から、堀越御所の跡と考えられている。
池の跡 遣り水と滝口が、都の暮らしを伝える
発掘で確かめられた池の跡には、遣り水(庭へ細く引いた流れ)と滝口が伴っていた。水を引き入れて落とし、また流していく庭である。戦乱の関東から離れた伊豆韮山の地で、公方が都風の暮らしを送っていたことがわかる遺跡である。
跡目の内紛——政知が死に、長男が牢を出た
政知には三人の男子がいたと伝わる。長男の茶々丸、二男の潤童子、三男の清晃である。茶々丸だけが先妻の子で、あとの二人は後妻の円満院の子だった。延徳3年(1491)4月、政知が病死する。
1491年 茶々丸が牢を出て、継母と異母弟を殺したと伝わる
円満院はわが子の潤童子を跡継ぎにしたいがため、先妻の子である茶々丸をささいな罪で牢に入れていたのだという。延徳3年(1491)、政知の死の混乱に乗じて茶々丸は牢を脱け出し、円満院と潤童子を殺して自分が二代目の堀越公方になると宣言したと伝わる。
重臣たち 二代目と家中の間は、しっくりいっていなかった
二代目を宣言した1491年の時点で、茶々丸と、政知の代から仕えてきた重臣たちとの間はしっくりいっていなかったとされる。力ずくで跡目を取った公方のもとで、家中はまとまらなかった。
夜襲——1493年、堀越御所は一夜で終わった
駿河の興国寺城にいた伊勢宗瑞(北条早雲)は、伊豆の様子を探るうちに、この内紛を知る。当時、伊豆でもっとも大きな勢力を持っていたのが堀越公方だった。
1493年 借りた兵で、御所を夜に襲った
明応2年(1493)、伊勢宗瑞は興国寺城で作戦を練り、今川氏親と葛山氏から兵を借りて堀越御所を夜襲した。兵は五百ほどだったと伝わる。1457年に政知が伊豆へ入ってから三十六年、堀越公方はこの夜に絶えた。
茶々丸の最期 三つの伝えがあり、どれとも決まらない
1493年の夜襲での茶々丸の最期は、その場で討たれたとも、近くの守山へ逃れて自刃したとも、落ちのびていったともいわれ、史料では確定できない。
そのあと 御所のそばに、新しい城が建った
1493年に伊豆へ討ち入った宗瑞は、堀越御所の近くに新たな城を築き、そこを居城として移った。これが韮山城である。伊豆で最大だった公方の御所は、伊豆をおさえた新しい主の城に入れ替わった。
国の史跡——「伝」の字が付いたまま、跡地は守られている
御所の跡は、1984年10月8日に「伝堀越御所跡」として国の史跡に指定された。1987年9月8日には範囲が追加されている。指定地は四日町と寺家にまたがる。
指定基準 政治の遺跡として、庭のある地として選ばれた
1984年の指定であてはめられた基準は二つある。「都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡」と、「旧宅、園池その他特に由緒のある地域の類」。政治の場としての性格と、庭を備えた屋敷としての性格が、どちらも認められた。
「伝」の一字 確かめきれていないことを、名前が残す
1984年に指定された史跡の名は「伝堀越御所跡」で、頭に「伝」が付いている。出てきた遺構は、規模と地元の伝承から堀越御所の跡と推定されたもので、ここが御所だったと文書で押さえられたわけではない。決めきれない一点を名前のうちに残したまま、跡地は史跡として守られている。
堀越公方の疑問に答える
古河公方とは、何が違う?
立っている側が違う。堀越公方は1457年に幕府が関東へ送り込んだ公方で、古河公方は関東に残って幕府と争った公方の家である。両者の争いはのちに収まるが、そのあとも政知は鎌倉に戻らず、伊豆の御所にとどまり続けた。
政知の子は、みな死んだ?
三男は将軍になっている。三男の清晃はのちに還俗(僧から俗人に戻ること)して足利義澄と名乗り、11代将軍に就いた。二男の潤童子は跡目争いのなかで茶々丸に殺されたと伝わり、長男の茶々丸自身の最期は史料では確定できない。伊豆に残った家は絶えた。
御所の跡には、今なにが見られる?
発掘で見つかった池の跡が中心である。遣り水と滝口を伴う池の跡が発掘で確認されている。
弘前市の堀越城と関係はある?
直接の関わりはない。伊豆の堀越公方とは時代も場所も異なる、字だけが同じ別の史跡である。
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参考にした資料
- 伊豆の国市「史跡伝堀越御所跡」(1457年の派遣と鎌倉に入れなかった経緯・堀越の地の比定・遣り水と滝口を伴う池跡・1493年の滅亡)
- 静岡県「しずおか文化財ナビ 伝堀越御所跡」(1984年10月8日の史跡指定と1987年の追加指定・指定基準・所在地・昭和57年からの発掘と園地を伴う遺構・『豆州志稿』の記述)
- 文化庁「文化遺産オンライン 伝堀越御所跡」(史跡指定日と所在地の裏取り)
- 小田原市「新・北條五代記 北條早雲の伊豆討入」(政知の三人の男子・円満院と茶々丸の対立・1491年の病死と茶々丸の宣言・重臣との不和・伊豆で最大の勢力・1493年の夜襲と借りた兵・茶々丸の最期の三説・韮山城の築城)
- 常総市デジタルミュージアム(旧水海道市史)(政知が関東へ遣わされ、鎌倉が荒廃していたため伊豆堀越にとどまったこと・義政との続柄)