旧国 / 東海道 / 今の静岡県伊豆半島・東京都伊豆諸島

伊豆国いずのくに

伊豆国(いずのくに)は、今の静岡県の伊豆半島と、東京都の伊豆諸島にあたる国です。戦国期の伊豆には、鎌倉に入れなかった堀越公方ほりごえくぼうの御所があり、明応2年(1493)にその御所を攻めた伊勢宗瑞そうずい(北条早雲)が韮山城にらやまじょうを本拠としました。伊豆は、後北条氏五代が関東へ進む足がかりになった国です。

要点

伊豆国の戦国期とは?

  • 堀越公方の御所は、鎌倉幕府の執権北条氏が本拠にしたのと同じ韮山の地に構えられた。
  • 北条氏は伊豆を豆州ずしゅう(口伊豆くちいず)と伊豆奥の二つの郡に分け、韮山城に郡代の笠原かさはら氏・清水しみず氏を置いた。
  • 武田氏とは、韮山城をめぐる陸の戦い(永禄12年・元亀元年)と、駿河湾での水軍の戦い(天正8年)の両方で争った。
  • 天正18年(1590)の小田原合戦では、韮山城は約3か月、下田城は約50日の籠城の末に開城した。

堀越公方の国は、どうやって北条氏の国になった?

公方家の跡目争いにつけこんだ一度の夜襲と、その後数年かけた伊豆全体の平定の、二段階を経てです。

鎌倉幕府が滅んだあと、伊豆国の守護は関東管領の山内上杉氏やまのうちうえすぎしが務め、韮山の奈古谷なごやに菩提寺の国清寺こくせいじを開いていました。伊豆は、関東の勢力にとっては箱根山を隔てた西の守りであり、西の勢力にとっては関東の入口にあたります。東海道と太平洋の航路が交わる地でもありました。

宗瑞が伊豆に攻め入った年は、かつて延徳3年(1491)とするのが通説でした。しかしこの年は堀越公方の足利政知が亡くなった年で、攻め入ったのは2年後の明応2年(1493)とみられています。

政知の子・茶々丸の最期は、資料によって分かれます。御所への夜襲で討たれた、近くの守山で自害した、落ちのびた、という伝えがあるほか、明応7年(1498)の深根城(今の下田市)の戦いで死に追い込まれたとも伝わります。城の西方には「御所の墓」と呼ばれる石塔が残ります。

1457年
足利政知、鎌倉公方として送られる

将軍足利義政が鎌倉公方として関東へ送った足利政知は、戦乱のため鎌倉まで行けず、韮山の堀越ほりごえ(今の伊豆の国市四日町の一部)に御所を構えた。御所があったと伝わる地の発掘では、御所に伴うと考えられる遣り水や滝口などの池の跡が見つかっている。

1491年4月
政知が病死

長男の茶々丸ちゃちゃまるが二代目の堀越公方を名乗ったが、政知以来の重臣たちとはうまくいかず、伊豆は混乱した。

1493年
宗瑞、堀越御所を攻める

駿河の興国寺城こうこくじじょうにいた伊勢宗瑞が、今川氏親いまがわ うじちからから兵を借りて御所を夜襲し、堀越公方の家は滅んだ。夜襲の兵は五百ほどだったと伝わる。

1498年
深根城を攻め落とし、伊豆を平定

宗瑞は伊豆の西海岸に上陸し、関戸播磨守が守る深根城を攻め落とした。この頃までに伊豆の平定を終えた。

1500年ごろ
韮山城が整う

この頃までに、堀越御所の近くに宗瑞の城、韮山城が整えられていた。

1519年8月15日
宗瑞、韮山城で死去

家督を継いだ子の氏綱のもとで本拠は小田原城へ移ったが、宗瑞は韮山城に住み続け、ここで亡くなった。

宗瑞の死後、韮山城は何を守った?

本拠が小田原に移ったあとも、韮山城は伊豆を治める支城であり、北条領国の西側を守る城でした。今川氏や武田氏との緊張が高まるたびに改修され、発掘でも大規模な改修を示す堀の跡が見つかっています。

1569〜1570年 武田信玄の侵攻

永禄12年(1569)、駿河東部と伊豆に攻め込んだ武田信玄たけだ しんげんの軍と、北条氏規らが韮山城で戦った。翌元亀元年(1570)にも信玄は再び伊豆に攻め込み、韮山の城下にまで迫った。

1579〜1582年 武田勝頼との争い

天正7年(1579)から、北条氏は駿河東部をめぐって武田勝頼たけだ かつよりと再び争った。天正8年(1580)には、北条氏政ほうじょう うじまさが清水康英に韮山城を固く守るよう命じている。この争いは、天正10年(1582)に武田氏が滅ぶまで続いた。

1585年から 豊臣に備えた工事

天正13年(1585)ごろから天正18年(1590)まで、韮山城では普請ふしん(城の工事)が盛んに行われた。豊臣秀吉とよとみ ひでよしへのはっきりした返事を避けながら、北条氏が領国全体で城の守りを固めた動きの一つだった。

伊豆の水軍は、どこに城を構えて誰に備えた?

北条氏は、今川義元いまがわ よしもとの死後に駿河へ入ってきた武田氏に備えて伊豆の水軍を組織し、のちには豊臣方の水軍に備えて南伊豆にも城を築きました。

長浜城(今の沼津市内浦)

北条水軍の根拠地だった重須湊おもすみなとを守る城と考えられ、天正7年(1579)から天正18年(1590)までの11年だけ使われた。天正7年には北条水軍をまとめる梶原備前守が置かれ、翌天正8年(1580)の駿河湾の海戦では、ここから軍船が出たと伝わる。海戦の勝ち負けははっきりしないが、武田氏が織田信長おだ のぶながに滅ぼされて争いは終わった。

下田城(今の下田市)

天正16年(1588)、後北条氏が豊臣方の水軍の東征に備えて下田に築いた山城。標高約70mの山頂に主郭を置き、尾根に曲輪くるわ(城内の区画)や櫓台を並べた。今の下田公園がその跡で、空堀が当時の姿をよく残している。

1590年、伊豆の城はどう開城した?

天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めでは、伊豆に陸と海の両方から豊臣軍が入りました。東海道を進んだ秀吉本隊は、山中城を攻める本隊と韮山城を攻める支隊に分かれ、3月29日に城攻めを始めています。

内浦の水軍の城

北条方が小田原での籠城を選ぶと、水軍の主力も小田原に集まり、内浦の城は水軍の基地として働けなくなった。水軍が去ったあとの城は在地の土豪大川兵庫を中心とする地元の人々が守り、韮山城の開城とともに廃城になったと考えられている。

北条氏のあと、伊豆は誰が治めた?

1590年8月
内藤信成ないとう のぶなり、韮山城主に

伊豆は徳川家康の領国になり、家康の家臣の内藤信成が韮山城に入った。

1590年8月
戸田忠次、下田の領主に

家康に仕える戸田忠次が、下田五千石の領主になった。

1601年
韮山城、廃城

内藤信成が駿府へ移り、韮山城は廃城になった。

1615年
下田の警備

家康は大坂夏の陣に備え、今村伝四郎に下田の警備を命じた。

江戸幕府の直轄地(天領)となった伊豆では、韮山城の近くに代官所が置かれ、北条氏の家臣から徳川家の旗本になった江川氏が代々代官を務めました。韮山城跡の大半は江川氏の囲い地になったため大きく手を加えられず、土塁や堀が戦国時代の姿をとどめています。

伊豆国から、次に読む

参考にした資料