要点
伊豆国の戦国期とは?
堀越公方の国は、どうやって北条氏の国になった?
公方家の跡目争いにつけこんだ一度の夜襲と、その後数年かけた伊豆全体の平定の、二段階を経てです。
鎌倉幕府が滅んだあと、伊豆国の守護は関東管領の山内上杉氏が務め、韮山の奈古谷に菩提寺の国清寺を開いていました。伊豆は、関東の勢力にとっては箱根山を隔てた西の守りであり、西の勢力にとっては関東の入口にあたります。東海道と太平洋の航路が交わる地でもありました。
宗瑞が伊豆に攻め入った年は、かつて延徳3年(1491)とするのが通説でした。しかしこの年は堀越公方の足利政知が亡くなった年で、攻め入ったのは2年後の明応2年(1493)とみられています。
政知の子・茶々丸の最期は、資料によって分かれます。御所への夜襲で討たれた、近くの守山で自害した、落ちのびた、という伝えがあるほか、明応7年(1498)の深根城(今の下田市)の戦いで死に追い込まれたとも伝わります。城の西方には「御所の墓」と呼ばれる石塔が残ります。
将軍足利義政が鎌倉公方として関東へ送った足利政知は、戦乱のため鎌倉まで行けず、韮山の堀越(今の伊豆の国市四日町の一部)に御所を構えた。御所があったと伝わる地の発掘では、御所に伴うと考えられる遣り水や滝口などの池の跡が見つかっている。
長男の茶々丸が二代目の堀越公方を名乗ったが、政知以来の重臣たちとはうまくいかず、伊豆は混乱した。
駿河の興国寺城にいた伊勢宗瑞が、今川氏親らから兵を借りて御所を夜襲し、堀越公方の家は滅んだ。夜襲の兵は五百ほどだったと伝わる。
宗瑞は伊豆の西海岸に上陸し、関戸播磨守が守る深根城を攻め落とした。この頃までに伊豆の平定を終えた。
この頃までに、堀越御所の近くに宗瑞の城、韮山城が整えられていた。
家督を継いだ子の氏綱のもとで本拠は小田原城へ移ったが、宗瑞は韮山城に住み続け、ここで亡くなった。
宗瑞の死後、韮山城は何を守った?
本拠が小田原に移ったあとも、韮山城は伊豆を治める支城であり、北条領国の西側を守る城でした。今川氏や武田氏との緊張が高まるたびに改修され、発掘でも大規模な改修を示す堀の跡が見つかっています。
1569〜1570年 武田信玄の侵攻
永禄12年(1569)、駿河東部と伊豆に攻め込んだ武田信玄の軍と、北条氏規らが韮山城で戦った。翌元亀元年(1570)にも信玄は再び伊豆に攻め込み、韮山の城下にまで迫った。
1579〜1582年 武田勝頼との争い
天正7年(1579)から、北条氏は駿河東部をめぐって武田勝頼と再び争った。天正8年(1580)には、北条氏政が清水康英に韮山城を固く守るよう命じている。この争いは、天正10年(1582)に武田氏が滅ぶまで続いた。
1585年から 豊臣に備えた工事
天正13年(1585)ごろから天正18年(1590)まで、韮山城では普請(城の工事)が盛んに行われた。豊臣秀吉へのはっきりした返事を避けながら、北条氏が領国全体で城の守りを固めた動きの一つだった。
伊豆の水軍は、どこに城を構えて誰に備えた?
北条氏は、今川義元の死後に駿河へ入ってきた武田氏に備えて伊豆の水軍を組織し、のちには豊臣方の水軍に備えて南伊豆にも城を築きました。
1590年、伊豆の城はどう開城した?
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めでは、伊豆に陸と海の両方から豊臣軍が入りました。東海道を進んだ秀吉本隊は、山中城を攻める本隊と韮山城を攻める支隊に分かれ、3月29日に城攻めを始めています。
韮山城
韮山城は3月28日、織田信雄・蒲生氏郷・細川忠興・福島正則ら4万4千の軍に囲まれたと記録される。守ったのは北条氏規で、6月には城下に火をかけられた。6月7日に徳川家康から開城を勧められ、6月24日に城を明け渡した。小田原城の開城(7月5日)より前のことだった。
下田城
下田城には3月上旬、脇坂安治・長宗我部元親らの豊臣方の水軍が押し寄せた。1万を超える軍に対し、城将の清水康英の兵は600余りだったといわれる。海の封鎖と陸からの包囲を受けて4月下旬に開城し、康英は河津の林際寺に身を寄せた。
内浦の水軍の城
北条方が小田原での籠城を選ぶと、水軍の主力も小田原に集まり、内浦の城は水軍の基地として働けなくなった。水軍が去ったあとの城は在地の土豪大川兵庫を中心とする地元の人々が守り、韮山城の開城とともに廃城になったと考えられている。
北条氏のあと、伊豆は誰が治めた?
伊豆国から、次に読む
参考にした資料
- 伊豆の国市「韮山城跡」(明応2年に宗瑞が堀越御所を攻めて伊豆に進出したこと・韮山城が小田原北条氏の最初の拠点で、今川氏・武田氏との緊張のたびに改修され、発掘で大規模改修を示す堀跡が見つかったこと・天正18年の約3か月の籠城と周りの山に残る付城跡・内藤信成の入城と慶長6年の廃城・韮山代官の御囲地となって土塁や堀が残ったこと・令和7年9月18日の国史跡指定)
- 伊豆の国市「史跡伝堀越御所跡」(長禄元年に足利義政が足利政知を鎌倉公方として送ったこと・政知が鎌倉へ行けず韮山の堀越(四日町の一部)に御所を構えたこと・明応2年の滅亡・遣り水や滝口を伴う池の跡)
- 伊豆の国市『韮山城跡「百年の計」』序章・第1章(守護山内上杉氏と奈古谷の国清寺・政知の御所が鎌倉北条氏の本拠と同じ地だったこと・伊豆が箱根山の西の守りと関東の入口で、東海道と太平洋航路の結節点だったこと・宗瑞が興国寺城にいたとする説・明応7年ごろの伊豆平定と茶々丸の切腹・明応9年ごろの韮山城整備・永正16年8月15日の宗瑞の死と本拠の小田原移転・豆州(口伊豆)と伊豆奥の二郡と郡代の笠原氏・清水氏・永禄12年と元亀元年の信玄の侵攻・天正7年から10年の武田勝頼との抗争・天正8年に氏政が清水康英へ韮山城の守りを命じたこと・天正13年ごろからの普請・天正18年に北条氏規が韮山城を守ったこと・3月28日の包囲と4万4千の軍・6月の城下への放火・6月7日の家康の勧告と6月24日の開城・7月5日の小田原開城・内藤信成の駿府転封・天領と江川氏の代官)
- 伊豆の国市『韮山城跡「百年の計」』第2章5「韮山城攻めの付城について」(秀吉本隊が山中城を攻める本隊と韮山城を攻める支隊に分かれ、3月29日に城攻めを始めたこと・韮山城を攻めた織田信雄・蒲生氏郷・細川忠興・福島正則ら44,100人)
- 下田市「深根城址」(延徳3年の政知の死と伊豆の混乱・明応7年に宗瑞が西海岸に上陸し関戸播磨守の深根城を攻め落としたこと・茶々丸がこの戦いで死に追い込まれたと伝わること・「御所の墓」の石塔)
- 下田市「下田城址」(天正16年に後北条方の水軍の拠点として築かれたこと・空堀などが残ること・天正18年3月上旬に脇坂安治・長宗我部元親ら1万を超える豊臣方の水軍に攻められ、城将清水康英が50日の籠城の末に開城したこと)
- 下田市「下田公園」(下田城が今の下田公園にあたること・城兵が600余りだったといわれること・海上封鎖と陸上の包囲による4月下旬の開城・標高約70mの主郭と曲輪・櫓台)
- 下田市「下田の歴史年表」(天正16年に豊臣方水軍の東征に備えて下田城が築かれたこと・天正18年4月下旬の開城と清水康英が河津の林際寺に身を寄せたこと・同年8月に戸田忠次が下田五千石の領主となったこと・元和元年の今村伝四郎への下田警備の命)
- 静岡県「しずおか文化財ナビ 長浜城跡」(重須湊を守る城と考えられていること・天正8年の駿河湾の海戦で軍船が出たと伝わること・天正18年に水軍の主力が小田原に集まったこと・天正7年から天正18年までの11年の存続)
- 沼津市「長浜城跡」(今川義元の死後に駿河へ入った武田氏に備えて伊豆の水軍を組織したこと・天正7年の梶原備前守の配置・海戦の結果ははっきりせず武田氏の滅亡で決着したこと・大川兵庫ら地元住民が守り韮山開城とともに廃城になったと考えられること)
- 小田原市「新・北條五代記 北條早雲の伊豆討入」(延徳3年4月の政知の病死と、長男茶々丸が二代目を名乗り重臣と不和だったこと・討入の年を延徳3年とする通説と明応2年とみる見方・今川氏親らから兵を借りた五百ほどの夜襲・茶々丸の最期の三つの伝え・御所の近くに韮山城を築いたこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「『伊豆七島』というが、どれがそうか。」(『日本国語大辞典』の「伊豆」の項で、伊豆半島部が静岡県に、伊豆七島が明治11年に東京府に入ったとされること)
- 東京都総務局「伊豆諸島について」(伊豆諸島が明治に韮山県・足柄県・静岡県と所属を変え、明治11年に東京府へ編入されたこと)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「国立国会図書館所蔵江戸期以前寺社縁起関係目録web版 東海道」(伊豆国を東海道の国に数えていること)