内藤信成とは?
徳川家康に仕えた家臣で、北条氏が滅んだあとの伊豆・韮山城(今の静岡県伊豆の国市)に入り、慶長11年(1606年)には近江・長浜城(今の滋賀県長浜市)へ移った人物です。
家康の家臣——生涯を家康のもとで過ごした
内藤信成は天文14年(1545年)に生まれた。徳川家康に仕えた家臣で、生涯を家康のもとで過ごしている。子に内藤信正(1568年〜1626年)がいる。信成の名が確かめられる任地は、伊豆の韮山城と近江の長浜城の二つで、長浜には信正とともに入った。
伝わる姿 肖像画が藤基神社にある
内藤信成を描いた肖像画が、藤基神社に伝わっている。長浜城の歴史を説明する図版としても使われている一点である。
韮山城へ——北条氏が滅んだ伊豆に、家康の家臣として入った
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅んだ。伊豆の韮山城では約3か月の籠城戦が行われたと伝わり、豊臣軍が周囲の山々に築いた付城(攻め手が築く陣地の城)の跡は今も残る。北条氏の滅亡後、徳川家康の家臣である内藤信成がこの韮山城に入城した。
韮山城 北条氏の最初の拠点だった
韮山城は、小田原北条氏の祖である伊勢宗瑞(通称・北条早雲)が戦国時代に整備した城である。宗瑞は明応2年(1493年)に堀越御所を攻めて伊豆へ進出したのち、この城を生涯の居城とした。宗瑞の没後、戦国大名としての拠点は小田原へ移るが、領国の西側を守る城として、駿河の今川氏や甲斐の武田氏との緊張があるたびに改修が加えられた。信成が入ったのは、その百年近い蓄積のある城だった。
残った言葉 「入城」までが記録に残る
内藤信成が韮山城に入ったことは伊豆の国市の資料に記されているが、在城中に何を担ったか、どれだけの領地を預かったかは記されていない。慶長6年(1601年)の廃城まで、伊豆での11年の中身は分かっていない。
1601年の廃城——城が閉じられ、跡地は代官の囲い地として残された
慶長6年(1601年)、韮山城は廃城(城を廃止して使わなくすること)となった。北条氏の滅亡から11年、信成が入ってからも11年である。廃城にいたった理由や、韮山城が廃城となった1601年から信成が長浜城に来る1606年までの5年間の動きは、今回たどれた公的資料には記されていない。城が閉じられたあと、韮山城跡は韮山代官の御囲地(代官が管理して立ち入りを限った土地)とされた。
御囲地 手を加えられずに残った城跡
廃城のあとの城跡は、ふつうなら畑や宅地に姿を変える。韮山城跡は代官の囲い地とされたため、その環境が大きく変わることなく、土塁や堀が戦国時代の姿をとどめた。
令和7年(2025年) 国史跡に指定された
韮山城跡は、戦国大名である小田原北条氏の最初の拠点城郭であり、戦国時代を通した構造の変化がわかる遺跡として評価された。周辺に良好な状態で残る付城跡群とあわせ、令和7年(2025年)9月18日に「韮山城跡附付城跡」の名で国史跡に指定されている。
長浜城へ——大坂の豊臣家を抑える位置に、1606年に入った
慶長11年(1606年)、内藤信成は近江の長浜城に来た。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いのあと、大坂の豊臣家を抑える役として、信成と子の信正の父子が長浜へ入っている。長浜は琵琶湖の東岸にあり、羽柴秀吉が城下町を営んで数年を過ごした町である。
長浜城 秀吉が地名を改めた城
城跡は琵琶湖岸にあり、もとは今浜城といった。天正の始め、羽柴秀吉が入城して地名を長浜と改め、城下町を経営して数年間ここを居城とした。天正11年(1583年)4月の賤ヶ岳の戦いでは、この城を根拠地とした。
天正13年〜18年 前の在城者は山内一豊
秀吉のあと、天正13年(1585年)から同18年(1590年)まで山内一豊が長浜城に在城した。一豊は信成と同じ天文14年(1545年)に生まれ、慶長10年(1605年)に没している。一豊の在城の終わりから信成の来城までは16年が開いており、その間に城を預かった人物の名は、市の説明にも博物館の説明にも書かれていない。
関ヶ原のあと 近江に徳川方の城が並んだ
関ヶ原の戦いに勝った家康は、近江に膳所城(今の滋賀県大津市)と彦根城(今の滋賀県彦根市)を築いた。慶長11年に信成が入った長浜城も、この並びの中にある。
子・信正の代——高槻へ移り、長浜城は廃城となった
関ヶ原の戦いのあと、摂津は豊臣家と徳川家の共同支配とされ、高槻の周辺は徳川家の代官が支配していた。慶長17年(1612年)、内藤信成は没した。その3年後、元和元年(1615年)5月の大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ。6月には大坂城が松平忠明に任され、続く閏6月には高槻城が内藤信正に任された。信正が摂津の高槻へ移ったことで長浜城は廃城となり、建造物と石垣の大半が彦根城へ運ばれた。
内藤信正 初代の大坂城代を務めた
高槻城を任された信正は、のちに初代の大坂城代(幕府が大坂城に置いた、西国支配を担う役)を務めた。信成が伊豆と近江で預かった城は、子の代に摂津へ移り、そこから幕府の西国支配を受け持つ役職へつながっている。信正は寛永3年(1626年)に没した。
長浜城のその後 建材は彦根城へ、廃城の経緯は資料で分かれる
廃城となった長浜城の建造物と石垣は、その大半が彦根城へ移された。石垣の用石や込石は、今も湖岸に散乱している。廃城の理由は資料によって書き方が分かれ、信正が高槻へ移ってから廃城になったとする説明と、豊臣氏が滅ぶと跡形もなく取り壊されたとする説明の両方がある。どちらも元和元年(1615年)前後を指す。
内藤信成の疑問に答える
内藤信成は徳川家康の弟?
家康との血縁に触れた公的な記述はない。今回たどれた資料が信成に与えている肩書は、「徳川家康の家臣である内藤信成」「生涯徳川家康に仕えた内藤信成」の二つで、伊豆と近江の資料は、信成と家康の関係を家臣として書いている。血縁をめぐる説を確かめられる公的な資料は、今回の範囲では見つからなかった。
内藤信成は八王子と関係がある?
公的資料には記述がない。八王子城跡をはじめとする八王子市の公開資料をあたっても、内藤信成の名は出てこない。信成の任地として確かめられるのは伊豆の韮山城と近江の長浜城で、武蔵での事績にあたる記述は今回たどれた資料に含まれていない。
内藤信成が高槻城主になった?
高槻城を任されたのは、信成の子の内藤信正である。元和元年(1615年)閏6月のことで、信成は3年前の慶長17年(1612年)に没している。高槻城の歩みを記した公的な説明に登場するのも信正の名で、信成の名は出てこない。
内藤信成にゆかりのものは、今どこにある?
肖像画が藤基神社に伝わる。信成が入った韮山城跡(今の静岡県伊豆の国市)は、廃城後に代官の囲い地となったため土塁や堀が残り、周辺の付城跡群とあわせて国史跡に指定されている。長浜城(今の滋賀県長浜市)は廃城のときに建材が運び出されたが、長浜市内の大通寺の台所門と知善院の表門、そして彦根城の天秤櫓が、長浜城の遺構と伝わる。長浜城跡は豊公園として整備され、昭和58年(1983年)に建てられた城郭型の博物館が建っている。
参考にした資料
- 静岡県伊豆の国市「韮山城跡」(北条氏滅亡後に徳川家康の家臣・内藤信成が韮山城へ入城したこと・慶長6年の廃城・廃城後に韮山代官の御囲地となり土塁や堀が残ったこと・伊勢宗瑞の整備と明応2年の伊豆進出・天正18年の約3か月の籠城戦と付城跡・令和7年9月18日の国史跡指定)
- 滋賀県長浜市「長浜城跡」(慶長11年に内藤信成が来城したこと・子の信正が元和元年に摂津高槻城へ移って廃城となったこと・建造物と石垣の大半が彦根城へ移されたこと・湖岸に散乱する用石と込石・今浜城と京極道誉の創築・秀吉の入城と地名の改称・賤ヶ岳の戦いの根拠地・天正13年から18年までの山内一豊の在城・大通寺台所門と知善院表門と彦根城天秤櫓が遺構であること)
- 滋賀県長浜市立 長浜城歴史博物館「長浜城の歴史」(内藤信成の生没年1545年〜1612年・内藤信正の生没年1568年〜1626年・「生涯徳川家康に仕えた」という説明・関ヶ原合戦後に大坂の豊臣家の抑えとして父子が長浜へ入城したこと・山内一豊の生没年1545年〜1605年・豊臣氏滅亡後の取り壊しと彦根城への転用・内藤信成像が藤基神社に伝わること・豊公園と昭和58年の博物館開館)
- 大阪府高槻市「北摂唯一の近世城郭 高槻城」(元和元年5月の大坂夏の陣・6月の大坂城が松平忠明へ・閏6月の高槻城が内藤信正へ・信正が初代大坂城代を務めたこと・関ヶ原合戦後に家康が近江へ膳所城と彦根城を築いたこと・摂津の共同支配と徳川家の代官による高槻周辺の支配)