人物ページ / 1583〜1644年 / 家康の孫・大坂城・郡山・姫路

松平忠明まつだいら ただあき

松平忠明は、家康の娘亀姫と奥平信昌の四男で、初名(最初に名乗った名)は清匡といった家康の孫です。大坂の陣後の大坂城主から郡山、姫路へと移った経歴を通じて、徳川一門による西国支配を追います。

松平忠明の肖像
松平忠明像 / Wikimedia Commons / Public domain

松平忠明は何を担ったか

  • 家康の孫で、奥平信昌と亀姫の四男。初名(最初に名乗った名)は清匡。
  • 大坂の陣後、論功行賞(手柄に応じた恩賞)で第一位に選ばれて大坂城主となり、東照宮を建てるなど大坂の立て直しに関わった。
  • 郡山(12万石)から「関西総探題」(西国を監督する城)と呼ばれた姫路(15万石)へ移り、西国の要地を治めた。

生涯を通して見る

忠明は、家康の家臣ではなく、家康の孫として一門を構成した人物です。大坂の陣後、論功行賞で第一位に選ばれて大坂城主となった人事には、将軍家が血縁の近い家で要地を固める意図が表れます。

大坂城主となった元和3年(1617)には、家康をまつる東照宮を大坂に建てています。豊臣家への思慕が残る大坂で、徳川の記憶を刻み直す建立でした。元和5年(1619)に郡山へ移ると、二の丸屋形を新たに造営して藩主の居所とし、鉄門や丸門などの城門を伏見城から移しました。広島福島家の浪人30人余りを召し抱えて住まわせた土地は、今日の広島町として名を残しています。

年表で追う

1583年
誕生

亀姫と奥平信昌の四男として生まれる。

1615年
大坂

大坂の陣後の論功行賞で第一位に選ばれ、大坂城主となる。

1617年
大坂

家康をまつる東照宮を大坂に建てる。

1619年
郡山

水野勝成みずの かつなりの後を受けて12万石で郡山城主となる。

1632年
郡山

7月、南都見物中の3代将軍家光を郡山城に迎える。

1639年
姫路

3月、「関西総探題」と呼ばれた姫路城に15万石で入る。

1644年
代替わり

姫路城主を子の忠弘が継ぐ。

この人物を読む四つの視点

家康の孫

徳川一門の政治的な意味を考える入口。官職は下総守しもうさのかみ。

大坂城

論功行賞第一位で城主となり、東照宮も建てた豊臣滅亡後の再編を考える。

姫路・郡山

郡山(12万石)から姫路(15万石)へ、西国を固める城の配置を見る。

奥平家

父信昌・母亀姫からのつながりを考える。

読み違えないために

忠明は「家康の孫」である一方、奥平家の系譜も持ちます。徳川一門という後の分類だけでなく、父母双方の家のつながりを意識します。

大坂の陣後の西国を、一門で固める

忠明が大坂城・郡山・姫路に関わったことは、豊臣家滅亡後の西国をどう安定させるかという問題と結びつきます。家康の孫を要地へ置くことで、将軍家は城と交通を近い一門で支えました。

父は奥平信昌、母は亀姫です。忠明の初名は清匡といい、官職は下総守でした。寛永9年(1632)9月には、家臣と奈良奉行所との間で水谷神事能(神事にともなう能楽)をめぐる大きな騒動も起きており、郡山を治めることの難しさも記録に残っています。

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参考にした資料

自治体・国立機関等の公開資料を参照し、本文は初学者向けに独自に整理しています。