人物ページ / 1555〜1615年 / 長篠城主・亀姫の夫・加納藩主

奥平信昌おくだいら のぶまさ

奥平信昌は、父・貞能とともに武田方から徳川方へ移り、長篠城を守り抜いて、家康の長女・亀姫を妻に迎えた人物です。長篠の英雄としてだけでなく、城下づくりと幕府の要職までを追います。

奥平信昌は何を担ったか

  • 父・貞能とともに武田方から徳川方へ転じ、長篠城主として1575年の武田軍の攻撃を耐えた。
  • 長篠の戦い後、信長から一字を受けて信昌と改名したとされる。
  • 家康の長女・亀姫を妻に迎え、新城城を築いた。
  • 関東入封後は上野、のちに初代京都所司代・加納藩主となった。

生涯を通して見る

奥平氏は、三河・信濃の境目に近い地域で、今川・松平・武田の間を行き来した国衆くにしゅうでした。信昌が徳川方へ入った直後に長篠城を任されたことは、家康にとって大きな賭けでもありました。長篠城が落ちれば東三河への道が開くためです。1575年の籠城と援軍到着は、奥平氏が徳川家臣団へ組み込まれる決定的な場面になりました。

戦後、信昌は家康の長女亀姫を妻に迎え、新たに新城城を築きます。これは個人の栄達だけではありません。境目の国衆を、婚姻と城下の再編によって徳川の有力な家臣へ変える政策でした。新城という地名自体が、信昌の城づくりと結びついています。

1590年の関東入封後、信昌は上野へ移り、さらに京都所司代、加納藩主となります。徳川の家臣が京都の政治・治安と城下の整備を担うようになったことは、戦国の国衆が近世の大名へ役割を変えたことを表しています。

父・貞能と、徳川方へ転じる危険

信昌(当時の名は貞昌)の父は奥平貞能おくだいら さだよしです。奥平氏は、もとは今の群馬県高崎市にあたる地を出自とし、8代貞俊の代に三河国作手つくで(今の愛知県新城市作手)へ移って本拠とした国衆と伝わります。以後、今川・徳川・武田と、そのときどきの強国に従いながら家を保ってきました。

新城市の長篠城址史跡保存館の解説によると、1571年ごろ長篠城の一帯は武田方に入り、1573年、武田信玄たけだ しんげんの死後に家康が長篠城を占拠して、作手の奥平貞能・貞昌父子を味方に引き入れたと伝わります。行田市が紹介する奥平貞能画像の解説も、貞能の代に家康方へつき、子の貞昌が長篠城に籠城して武田勝頼軍と対峙したことを伝えています。

この転身には重い代価が伴いました。武田勝頼たけだ かつよりは激しく怒り、人質として預けられていた奥平の子ら(仙千代・虎之助・おふう)を処刑したとされます。どちらの陣営に付くかは、国衆にとって家族の命を賭ける判断でした。父の代に選んだ側を、子が長篠城の籠城で実際に示したことになります。

年表で追う

1573年ごろ
徳川方へ

武田信玄の死後、家康が長篠城を占拠し、作手の奥平貞能・貞昌(信昌)父子を味方に引き入れる。武田方にいた人質は処刑されたとされる。

1575年
長篠城を守る

武田勝頼の攻撃を耐え、織田・徳川援軍につなぐ。

1576年
新城城と婚姻

新城城を築き、亀姫を妻に迎える。

1590年
上野へ移る

家康の関東入封にともない宮崎へ移る。

1601年以後
京都所司代・加納

幕府の京都支配と加納城下を担う。

この人物を読む四つの視点

境目の国衆

有力大名の間で生き残った家が、徳川譜代へ変わる。

長篠城

籠城は設楽原したらがはらの決戦を呼び込んだ前半戦だった。

亀姫との婚姻

家康の娘との婚姻が、奥平家の位置を大きく変えた。

新城・加納

戦場の城主から、城下を整える近世大名へ進む。

読み違えないために

長篠城の籠城と鳥居強右衛門すねえもんの話は有名ですが、英雄一人の物語にすると城兵・地域・援軍の働きが見えにくくなります。信昌の改名や婚姻の細部も、当時の政治的な意味を含めて扱います。

奥平信昌から、次にたどる

参考にした資料

自治体・博物館等の公開資料を参照し、本文は初学者向けに独自に整理しています。