このページの結論
三河は、家康が最初から一枚岩で受け継いだ国ではない
- 西三河では松平諸家と岡崎・安祥、東三河では牧野・戸田・奥平・菅沼らと吉田が地域政治の軸でした。
- 今川氏は松平氏だけでなく、城代・国衆・寺社への安堵を通じて三河を支配しました。
- 家康は東三河攻略と三河一向一揆を経て国内を固め、1568年から遠江へ進出しました。
西三河と東三河は、何が違う?
西三河・東三河という区分は便利ですが、戦国期に一本の固定境界が引かれていたわけではありません。ここでは、勢力と交通の中心が異なる二つの地域として整理します。
| 地域 | 主な拠点・勢力 | 戦国期の特徴 |
|---|---|---|
| 西三河 | 岡崎、安祥、矢作川流域。松平諸家、水野氏など。 | 尾張の織田氏と接し、松平氏の惣領をめぐる争い、安祥城攻防、三河一向一揆の中心になりました。 |
| 東三河 | 吉田、豊川流域、渥美・奥三河。牧野氏、戸田氏、山家三方衆など。 | 遠江・駿河へつながる玄関で、今川氏が吉田城を支配拠点とし、のちに家康と武田氏が争いました。 |
岡崎
矢作川・乙川と中世東海道が交わる西三河の中心。清康が拠点を移し、元康が自立の本拠としました。
吉田
東海道・豊川・三河湾を結ぶ東三河の中心。牧野・戸田・今川・松平が城をめぐって争いました。
奥三河
山間部には奥平氏・田峯菅沼氏・長篠菅沼氏などが基盤を持ち、今川・徳川・武田の間で選択を迫られました。
松平氏は、一つの家ではなく「諸家の連合」だった
松平氏は松平郷から岩津へ進出し、やがて安祥松平家が有力になります。その過程で竹谷・形原・大給・深溝・長沢など多くの家が分かれました。血縁で結ばれていても所領と利害は別で、常に同じ方へ従ったわけではありません。
初期松平氏は西三河各地へ進出し、城・所領ごとに複数の家を生みました。
親忠・長親・信忠・清康の系統が安祥を拠点に勢力を伸ばし、清康は1524年に岡崎へ拠点を移しました。
清康の急死後、松平一族は織田方・今川方へ分かれます。幼い広忠・竹千代が当然に全家を率いたわけではありません。
「松平氏=最初から徳川家康の家臣団」ではありません。 家康は同族・国衆・寺社勢力との対立と和解を重ね、後から統合の中心になりました。
今川氏は、三河をどう支配した?
今川氏の三河支配は「竹千代を人質にした」だけでは説明できません。西三河では松平広忠を支えつつ織田信秀と安祥城を争い、東三河では吉田城を押さえて直臣の城代を置きました。国衆・寺社への所領安堵や軍事動員を積み重ね、地域ごとに支配を組み立てています。
西三河
織田氏との安祥城攻防を通じ、松平氏を今川方へつなぎました。竹千代は今川のもとで元服し、軍事行動にも加わります。
東三河
1546年に義元が吉田城を攻略し、東三河統治の拠点にしました。牧野氏・戸田氏らの争いを越えて城代支配を進めます。
支配の限界
義元の死後、氏真が遠隔地の国衆・城代をつなぎ止められなくなると、三河の今川支配は急速にほどけました。
家康は、三河をどう固めた?
今川義元の戦死後、元康は今川勢が退いた岡崎城へ入り、自立の足場を得ます。
西の織田氏との戦線を整理し、東三河の今川方攻略へ力を向けられるようになりました。
本願寺門徒の武士・農民だけでなく家康の家臣も敵味方に分かれました。和議後、帰参を認めながら主従関係を組み直します。
吉田城を得て酒井忠次を置き、三河の統合を進めます。1566年、徳川姓と三河守の官位を得ました。
武田氏の駿河侵攻と並行して今川領へ入り、掛川城開城後は遠江支配を進め、1570年に浜松へ本拠を移します。
一向一揆の鎮圧だけで三河統一が完成したわけではありません。 西三河の家臣団再編、東三河の城と国衆の掌握、今川氏真との和睦が重なって、遠江へ進める基盤ができました。
岡崎・吉田が重要なのは、街道・川・海が交わるから
三河は尾張・遠江を結ぶ東西の通路であると同時に、矢作川・豊川から山間部や三河湾へつながる地域でした。軍勢だけでなく、兵糧・塩・馬・情報を動かせる場所を押さえることが支配につながります。
中世東海道
京都と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還が三河を横断し、矢作宿・今橋宿などが東西交通を支えました。
矢作川と岡崎
渡河点と川運を押さえる岡崎は、西三河の軍事・商業拠点になりました。
豊川・吉田湊
吉田は街道、豊川の河川交通、三河湾・伊勢方面の海路が結び付く東三河の要衝でした。
北への道
奥三河の谷筋は信濃・遠江へつながり、長篠や設楽原が武田・徳川の攻防地になった背景でもあります。
現在知られる東海道五十三次の宿駅制度は、家康が江戸幕府を開いた後に整えたものです。戦国期にも東西の幹線はありましたが、近世の宿場配置をそのまま遡らせない注意が必要です。