人物ページ / 緒川と刈谷の領主・家康の母方の伯父

水野信元みずの のぶもと

水野信元とは?

知多半島の北東部にある緒川(今の愛知県東浦町)を本拠とした水野氏の当主で、徳川家康の母・於大の方おだいのかたの兄です。天文12(1543)年に家督を継ぎ、尾張の織田氏と結んで今川方と戦い、桶狭間の戦いのあとは刈谷城を本拠として、甥の家康を支えました。

しかし天正3(1575)年12月、織田信長の命令によって岡崎で殺されます。なぜ殺されたのか、どのように殺されたのかは、資料によって説明が少しずつ違います。

天文12(1543)年、父の忠政が亡くなり、緒川の水野氏の家督を継ぎます。
天文23(1554)年1月24日、信長の援軍を得て、今川方の村木砦を攻め落とします。
桶狭間の戦い(1560年)のあと刈谷城を本拠とし、織田・松平の同盟ののちは甥の家康を補佐します。
天正3(1575)年12月27日、信長の命令によって岡崎で殺されます。
領地は佐久間信盛に与えられ、天正8(1580)年に弟の忠重が刈谷城主となります。

緒川の当主——家督と、妹の離縁

戦国時代の水野氏には、緒川を本拠とする緒川水野氏と、衣浦湾の東の刈谷を本拠とする刈谷水野氏の二つの系統があったと考えられている。信元は天文12(1543)年7月、父の忠政が亡くなると、緒川水野氏の家督を継いだ。緒川城は文明年間(1469〜1486年)に水野貞守が築いたと伝わり、忠政や信元ら水野氏の居城となった。美浜町に伝わる系図の抜き書きは、信元が大高・常滑・奥田など六つの城をあわせて治めたと記す。

よく知られた説明 信元が織田方につき、妹が離縁される

妹の於大の方は天文10(1541)年に岡崎の松平広忠まつだいら ひろただに嫁ぎ、翌年に家康を生んだが、天文13(1544)年に離縁されて刈谷へ戻った。1935年刊の『愛知県史』は、家督を継いだ信元が今川氏に背いて織田氏についたため、広忠が於大の方を離縁したと書く。刈谷市歴史博物館の年表も、離縁を「織田・水野の同盟」によるものとしている。

近年の研究 通説の対立の構図に疑問

刈谷市歴史博物館の研究紀要は、信元が妹の離縁ののち広忠と敵対し、織田信秀おだ のぶひでと結んでいたことを書状から示す。ただし、この頃に織田氏と今川氏が敵対していた事実は確認できないとして、織田氏・緒川水野氏と今川氏・岡崎松平氏が対立したという通説の構図には疑問が出されていると紹介している。

村木砦——信長を呼んだ戦い

今川方は、緒川城も攻め取ろうとして、村木(今の東浦町森岡)に砦を築いた。天文22(1553)年、信元は那古野城の織田信長に救援を求める。天文23(1554)年1月、信長は海を渡って緒川に入り、24日に砦を攻めた。東浦町の広報によれば、信長は攻めにくい南の大堀を受け持ち、西は叔父の織田信光おだ のぶみつ、東は水野の軍が攻め、砦は夕刻に降参して落ちた。

もう一つの水野氏 刈谷を継いだ弟の信近

これより前、刈谷水野氏は織田方について今川氏と対立し、天文19(1550)年の秋ごろには刈谷城を一時今川氏に占領された。その後、刈谷水野氏の当主には信元の弟の信近が就き、以後は緒川水野氏と歩調を合わせるようになったと、刈谷市歴史博物館の研究紀要は整理している。

名前の謎 「水野十郎左衛門尉」は誰か

当時の書状には「水野十郎左衛門尉」という人物が現れ、美濃の斎藤氏の重臣からは厚い礼をもって、織田信秀や今川義元いまがわ よしもとからは対等の立場で書状を受けている。従来は信近とされてきたが、同じ紀要の論文は、信近説の根拠の史料に不審な点が多いことなどから、これを信元と結論づけている。

刈谷城と家康——桶狭間のあと

刈谷市歴史博物館の研究紀要によれば、永禄3(1560)年の桶狭間の戦いのあと、刈谷城主だった弟の信近は、今川方の岡部元信おかべ もとのぶに討ち取られた。そこで信元が刈谷城に入り、刈谷水野氏をあわせる。信元は信近の遺児の元茂(信正)を養子として跡継ぎにした。刈谷市歴史博物館の展示の解説は、信元が桶狭間の戦いの後、刈谷を本拠とする国衆として勢力を広げたと書く。

清洲同盟と信元 和睦をはかり、同盟ののちは家康を補佐

『愛知県史』は、永禄4(1561)年2月に信長が信元に命じて、松平元康(のちの家康)との和睦をはからせ、翌年正月に元康が清須で信長と会盟したと書く。刈谷市歴史博物館の研究紀要は、『刈谷市史』を引いて、永禄4年の織田・松平の同盟ののち、信元が家臣団の取りまとめや各方面との交渉で、松平家の宿老以上に甥の家康を補佐したと説明している。

信長との距離 将軍に仕える「外様衆」でもあった

信元の家は次第に織田家の配下のような立場になっていく。一方で、足利義昭あしかが よしあきが将軍だった時期には幕府の「外様衆」として、織田家から独立した存在と見なされていた。義昭が信長と決裂したあとの天正2(1574)年3月の段階でも、その扱いは変わらなかったという。

天正3年の死——何が理由だったのか

長篠の戦いのあった天正3(1575)年の12月27日、信元は信長の命令によって岡崎で殺された。跡継ぎの元茂も、このとき同じく殺されたとされる。刈谷市歴史博物館の展示の解説は、信元が武田家への内通を疑われて殺されたと説明している。ただし、何が疑いを招いたのか、誰がどう手を下したのかは、資料によって書き方が違う。

疑いのきっかけ 兵糧か、塩か、佐久間信盛の讒言か

『愛知県史』によれば、織田方が武田方の美濃岩村城を囲んでいたとき、城兵がひそかに近くの村へ出て鎧や馬具を塩や味噌に替えており、それが刈谷・緒川のあたりで特に多かった。信元と仲の悪かった佐久間信盛がこれを利用し、信元が敵に通じて食料を送っていると信長に告げたという。美浜町の系図の抜き書きは、信元の領民が武田方の領地へ塩を送ったことを口実にされたと書く。

殺され方 切腹か、路上で斬られたか

『愛知県史』は、信長に命じられた家康が、久松俊勝を遣わして信元を岡崎に誘い出し切腹させたとも、石川数正いしかわ かずまさ・平岩親吉ひらいわ ちかよしに途中で斬らせたともいう、と二つの伝えを並べている。美浜町の系図の抜き書きは「家康の家臣に殺害される」とだけ記す。

その後の刈谷——佐久間信盛と弟の忠重

信元の死後、緒川と刈谷は佐久間信盛に与えられた。信盛は信元の家臣を追い出して自分の直轄領にしたとして、のちに信長から責められている。ただし緒川では、信元の弟の忠分が追い出されず、佐久間氏の配下として残った。天正8(1580)年8月に信盛が追放されると、信長は徳川家のもとにいた信元の弟・忠重を刈谷城主とした。研究では、信元の死で信元の刈谷水野家は滅び、忠重の家は新しく立てられたものと区分されている。忠重の子の勝成は、のちに初代の刈谷藩主となった。

墓所 刈谷・楞厳寺の水野家廟所

刈谷市の楞厳寺の境内墓地の一角に、塀に囲まれた水野家廟所がある。ここに水野信元夫婦の墓があり、弟の忠重夫婦や忠分の墓も並ぶ。廟所は昭和33(1958)年11月11日に刈谷市の史跡に指定された。

名を継いだ孫 外孫の光康が「水野」を名乗る

信元の娘は知多の河和城主・戸田守光に嫁いだ。その子の光康は江戸で於大の方のもとで育ち、慶長2(1597)年、家康の意向で外祖父・水野信元の名跡を継いで水野を名乗り、武蔵で700石を与えられたと、美浜町の資料は伝える。

水野信元の疑問に答える

信元は、はじめから刈谷城主だったの?

資料によって異なる。東浦町の広報は、天文22(1553)年の時点の信元を「刈谷城と緒川城の城主」と書き、1935年刊の『愛知県史』も、家督を継いだ頃の信元が刈谷・緒川の両城に拠ったと書く。一方、刈谷市歴史博物館の研究紀要は、桶狭間の戦いまで刈谷城主は弟の信近で、信元が刈谷城に入ったのはそのあとだとしている。

信長と家康の同盟は、信元がとりもったの?

『愛知県史』は、信長が信元に命じて和睦をはからせたと書く。刈谷市歴史博物館の研究紀要は、同盟ののちに信元が家康を補佐したことを『刈谷市史』を引いて書くが、和睦の仲立ちそのものには触れていない。

信元を殺したのは家康なの?

命じたのは信長である。家康の家臣が手を下したとする資料がある一方、久松俊勝が誘い出して切腹させたとする伝えもあり、細かいところは定まっていない。

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参考にした資料