斎藤氏とは?
- 守護代の斎藤氏が先にあった。美濃守護・土岐氏のもとで守護代を務め、15世紀後半の斎藤妙椿は応仁の乱で守護以上の実力者となった。
- 道三は長井氏から斎藤を名乗った。道三の父は京都から美濃に入った長井新左衛門尉。父子は守護代斎藤氏の内紛に乗じて力を伸ばし、道三が斎藤の名跡を継いだ。
- 「国盗り」は父子二代の仕事だった。道三一人が油売りから成り上がったという話は後世の物語で、現在は父の代から二代かけて美濃を手中にしたとする見方が有力。
- 道三は子に討たれた。1556年、長良川の戦いで嫡男の義龍に敗れて戦死。親子の争いの背景には家臣団の不満があった。
- 三代で信長に奪われた。義龍は1561年に急死し、若い龍興は1567年に稲葉山城を落とされた。美濃は信長のものとなり、岐阜と改められた。
「斎藤」には、二つの流れがある
| 守護代の斎藤氏 妙椿の家 | 藤原氏の流れをくみ、室町時代に美濃守護・土岐氏の守護代を世襲した。応仁の乱のころの斎藤妙椿は守護・土岐成頼を支えて美濃の実権を握り、周辺諸国にも出兵した。妙椿の死後は一族の内紛で力を失った。 |
|---|---|
| 道三の斎藤氏 長井氏から | 京都の出身とされる長井新左衛門尉が美濃に入り、守護代斎藤氏の内紛に乗じて台頭した。子の道三は長井氏を継いだのち、斎藤の名跡を継いで「斎藤利政」と名乗り、守護の土岐氏を追放して美濃の主となった。 |
つまり道三の家は、守護代の家そのものではなく、その名を継いだ新しい家です。北条氏が鎌倉北条氏の名を借り、上杉謙信が主家の名跡を譲られたのと似ていますが、道三の場合は衰えた守護代家の名を「乗っ取った」形に近いといえます。長井氏から斎藤氏への流れは長井氏・斎藤氏の二代国盗りで、美濃全体の流れは美濃国で整理しています。
道三父子は、どうやって美濃を奪ったのか
- 01父・長井新左衛門尉の台頭
京都の僧だったとも油売りだったとも伝わる人物が美濃に入り、守護代斎藤氏の家臣・長井氏に仕えて頭角を現しました。1525年には守護の土岐氏に対して反乱を起こしています。
- 021533年:道三が跡を継ぐ
父の死後、子の新九郎(道三)が跡を継ぎ、長井氏の家督を奪い、さらに守護代斎藤氏の名跡を継いで斎藤利政と名乗りました。
- 031549年:信長との縁組
織田信秀との和睦の証として、娘の濃姫(帰蝶)を織田信長に嫁がせました。道三と信長の会見で道三が信長の器量を認めたという話は、後世の記録によるものです。
- 041550〜1552年ごろ:守護・土岐頼芸を追放
道三は守護の土岐頼芸を大桑城から追放し、美濃の実権を握りました。追放の時期は、天文19年(1550)ごろとする資料と、天文21年(1552)ごろとする資料があります。
斎藤氏はなぜ、三代で美濃を失ったのか
- 親子が争った。道三は1554年に家督を嫡男の義龍へ譲ったが、義龍より弟の孫四郎・喜平次らを偏愛し、父子は不仲になった。1556年に義龍が兵を挙げた。道三は長良川の戦いで敗れて戦死した。義龍には土岐氏の血を引くという噂があり、美濃の国衆は義龍を支持した。
- 義龍は早く死んだ。義龍は家臣団をまとめ、信長の美濃侵攻を何度も退けたが、1561年に34歳で急死した。
- 龍興は家臣に見放された。14歳で継いだ龍興は家臣の信頼を得られず、1564年には竹中半兵衛に稲葉山城を一時乗っ取られた。美濃三人衆(稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全)が信長に通じ、1567年に稲葉山城は落城した。
- 美濃は岐阜になった。信長は稲葉山を岐阜と改め、ここから天下布武を掲げた。龍興は各地を転々としたのち、1573年に朝倉氏のもとで戦死した。
斎藤氏の支配は道三個人の力で始まり、国衆の支持を固める前に親子の争いで揺らぎました。落城の経過は稲葉山城攻略で、城については稲葉山城で読めます。
斎藤氏をめぐる人物
斎藤氏についてのよくある疑問
道三は本当に油売りから大名になったのか?
道三は、かつて油売りの行商から美濃へ来て一代で下剋上を成し遂げた人物とされてきましたが、現在では父子二代の仕事とする見方が有力です。近江の六角承禎が出した「六角承禎条書」という文書が見つかり、国盗りは父・長井新左衛門尉とともに二代で成し遂げたものとわかってきたためです。道三が成り上がりだったことは確かですが、出発点は父の代にあります。
なぜ義龍は父を討ったのか?
道三が1554年に家督を義龍へ譲ったあとも、義龍より弟の孫四郎・喜平次らを偏愛し、父子が不仲になったことが原因とされます。義龍が道三の実子ではなく、追放された守護・土岐頼芸の子だという噂も背景にあったといわれますが、これは確かめられていません。重要なのは、美濃の国衆の多くが道三ではなく義龍を支持したことで、道三の支配が家臣団に根づいていなかったことを示しています。
斎藤氏は弱かったのか?
義龍の代の斎藤氏は、信長の侵攻を何度も退けており、決して弱くはありませんでした。問題は義龍が34歳で急死し、14歳の龍興が継いだことです。若い当主が家臣をまとめられず、竹中半兵衛や美濃三人衆に見限られたことが、落城につながりました。家の力より、継承の不運が大きかったといえます。
参考にした資料
- 岐阜市「岐阜城の歴代城主」
- 岐阜市「まちなか博士認定試験公式テキストブック(令和8年度版)」第3章(天文18年(1549)頃に信長と濃姫(帰蝶)が結婚し表面上の和睦が成ったこと・「六角承禎条書」の発見で国盗りが父子二代の達成とわかってきたこと・聖徳寺の会見の伝え・天文21年(1552)頃に道三が土岐頼芸を追放したこと・1554年に家督を義龍へ譲ったあと弟の孫四郎・喜平次らを偏愛したこと・長良川の戦いで旧土岐家家臣団がほとんど道三に味方しなかったこと・1561年に義龍が34歳で急死したこと)
- 岐阜市「道三塚」(天文19年(1550)頃に道三が土岐頼芸を大桑城から追放したこと・1554年に義龍へ家督を譲ったのち、義龍の弟二人を尊重して義龍をないがしろにしたため父子が不仲になったこと)
- 岐阜市「市の歴史」
- 岐阜県「斎藤妙椿墓」
- 岐阜県「絹本著色斎藤道三像 斎藤義竜像」
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訂正の記録
記事の理解に関わる訂正をしたときは、日付と内容をここに残しています(誤りの訂正について)。
- 2026年9月28日 道三が守護・土岐頼芸を追放した年を「1542年」と書き、追われた頼芸を織田信秀が支援したとしていましたが、資料に照らして、追放の時期を天文19年(1550)ごろ・天文21年(1552)ごろに訂正し、信秀の支援の記述を削除しました。
- 2026年9月28日 道三が「弟たちに家督を譲ろうとした」と書いていましたが、資料に照らして、1554年に家督を義龍へ譲ったあと弟の孫四郎・喜平次らを偏愛し、父子が不仲になったことに訂正しました。
- 2026年9月28日 斎藤義龍の没年齢について、掲載資料の記載に合わせて35歳から34歳へ修正しました。