事件・合戦ページ / 1556年 / 美濃の主導権が替わる

長良川の戦いながらがわのたたかい

1556年、斎藤道三と子の斎藤義龍が美濃の主導権を争った戦いです。道三は敗れて討たれ、義龍が美濃を継ぎました。信長は道三の娘婿とされますが、美濃は織田の味方にはならず、1567年の稲葉山城攻略まで信長の前に立つ壁になります。

1556年 斎藤道三 斎藤義龍 美濃・稲葉山城

長良川の戦いとは?

  • 1556年、斎藤道三が子の義龍に討たれた。美濃の主導権をめぐって親子が対立し、長良川で戦って道三が敗死した。
  • 道三は家督を譲っていた。1554年に義龍へ家督を譲ったが、その後も道三が義龍を軽んじたことが対立を深めた。
  • 美濃の国衆は義龍についた。道三の強引な支配に不満を持つ国衆くにしゅうが多く、兵力は義龍が圧倒的だった。
  • 信長は道三を助けられなかった。道三の娘婿である信長は援軍を出したが、間に合わなかった。
  • 美濃は信長の壁になった。義龍は信長に敵対し、1567年の稲葉山城攻略まで美濃は信長の前に立ちはだかった。

長良川の戦いは、信長と道三の戦いではない

この戦いの当事者は、道三と義龍です。道三は美濃で実権を握った前当主、義龍は家督を継いだ後継者でした。二人の対立は親子げんかにとどまらず、美濃の家中で誰が主導権を持つのかをめぐる政権争いでした。

信長は道三を助けようと動きましたが、戦いには間に合いません。道三と織田の関係、そして信長と道三の娘の婚姻があったことは重要ですが、それだけで美濃の主を決めることはできなかったのです。

道三の立場

美濃の前当主として、稲葉山城を中心に築いた支配を保とうとします。

義龍の立場

家督を継いだ当主として、家中の支持を集め、美濃を自分の時代へ移そうとします。

信長の立場

道三の娘婿として援軍を送りますが、美濃の内紛を織田の優位へ変えることはできませんでした。

誰が、何を争ったのか

斎藤道三さいとう どうさん美濃の前当主。義龍へ家督を譲った後、家中の対立のなかで義龍と戦いました。
斎藤義龍さいとう よしたつ道三の子で後継者。多くの美濃武士を味方につけ、美濃の主導権を握ります。
美濃の家臣団戦国大名の国を実際に支える人々。どちらに付くかが、戦いの結果を大きく左右しました。
織田信長おだ のぶなが道三の娘婿とされる人物。道三を助けようとしましたが、戦いには間に合いませんでした。

戦いまでの流れ

1548年頃
道三と織田信秀が和睦

尾張・美濃の有力者が関係を結び直し、のちの婚姻の背景になります。

1540年代後半
信長と道三の娘の婚姻

織田と斎藤を結ぶ接点が生まれますが、美濃の継承を決めるものではありません。

1554年
義龍が家督を継ぐ

道三が隠居し、義龍が美濃の当主となります。

1555年頃
父子の対立が決定的になる

家中が割れ、道三と義龍は武力で主導権を争う段階へ進みます。

1556年
長良川の戦い

義龍が道三を破り、道三は討死。美濃の主は義龍に替わります。

なぜ親子は対立したのか

長良川の戦いを「道三が信長へ美濃を譲りたかったので、義龍が反発した」とだけ説明することはできません。義龍の出自をめぐる説、後継者への不信、道三と義龍それぞれに結びつく家臣団など、複数の事情が絡んだと考えられます。

有名な逸話を一つの答えにせず、「家督を譲った後に美濃の家中が大きく割れた親子対立」として捉える必要があります。勝敗の鍵は、親子二人の感情だけでなく、家中がどちらを支えるかにありました。

戦後、何が変わったのか

長良川から岐阜まで、十一年ある

道三が1556年に倒れても、信長がすぐ美濃を手にしたわけではありません。義龍が1561年まで美濃を保ち、義龍の死後は子の龍興たつおきが継ぎます。信長が稲葉山城を攻略するのは1567年です。

義龍の時代

道三の死後も美濃が独立した勢力であり続けたことを示します。

龍興の時代

有力家臣との関係が変わり、信長の美濃攻略が進む条件が生まれます。

1567年の岐阜

稲葉山城と城下が信長の新しい本拠へ変わり、翌年の上洛につながります。

ここだけ覚える

  • 長良川の戦いは、道三と義龍が美濃の主導権を争った親子対立。
  • 道三は敗れて討たれ、義龍が美濃の当主として国を保った。
  • 信長は道三の娘婿とされるが、美濃をすぐ味方にできたわけではない。
  • 信長が美濃を手に入れるのは十一年後、1567年の稲葉山城攻略である。

長良川の戦いについてのよくある疑問

義龍は道三の実子ではなかったのか?

義龍は道三が主君・土岐頼芸から譲り受けた側室の子で、実は頼芸の子だったという話が伝わります。義龍自身が土岐氏の血を引くと称して国衆の支持を集めたとされますが、実際の出自は確かめられていません。

道三はなぜ国衆に見放されたのか?

道三は一代で美濃を奪った人物で、土岐氏を追い、多くの国衆を力で従えました。国衆のなかには道三の支配に不満を持つ者が多く、義龍が立つと大半が義龍に味方しました。道三側の兵は少数だったと伝わります。

道三が信長に美濃を譲る書状を残したというのは本当か?

道三が死の直前に美濃を信長に譲るという書状を書いたとする話があり、信長の美濃攻略の名分になったとされます。書状の写しとされるものはありますが、真偽については議論があります。

長良川の戦いは信長にどんな影響があったのか?

舅の道三を失った信長は美濃からの支援を失い、同じ年に弟・信行との稲生の戦いいのうのたたかいを迎えることになりました。義龍は信長と敵対し続け、信長が美濃を手に入れるのは義龍の死後、1567年のことです。詳しくは斎藤氏で整理しています。

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参考にした資料

長良川の戦いに至る親子対立の細部には複数の説があります。家督相続、美濃の家中対立、戦後の継承という大きな流れを中心に整理しました。