稲葉山城攻略とは?
なぜ稲葉山城は落ちたのか
信長の軍勢が外から攻めたことだけでは、1567年の決着を説明しきれません。義龍の急死後に龍興が継ぎ、有力家臣との結びつきが変わるなかで、美濃三人衆が信長の攻略へ協力しました。
つまり攻略は、信長対龍興という二人だけの戦いではありません。外からの織田軍、西美濃の地域勢力、稲葉山城を本拠にする龍興の関係が重なって、斎藤氏の美濃を支える土台が崩れた出来事です。
稲葉山城攻略までの流れ
有名な攻略伝説は、どこまで確かなのか
墨俣一夜城
木下藤吉郎が短期間で砦を築き、美濃攻略の足場にした話は有名です。ただし、後世の軍記が描く「一夜で巨大な城を完成」の細部は、そのまま同時代の事実とは断定できません。
崖を登る奇襲
藤吉郎ら少人数が険しい道から城内へ入り、火を放って城門を開いたという物語も広く知られます。攻略の具体的な経路・人数には伝承が重なります。
美濃三人衆の転身
西美濃の有力者が信長側へ協力したことは、城の孤立を考える重要な要素です。ただし三人の内応時期や交渉の細部には史料による違いがあります。
動かない骨組み
1567年に信長が稲葉山城を得て龍興が退き、井ノ口を岐阜へ改め、本拠としたことが出来事の中心です。伝説はこの骨組みと分けて楽しめます。
城と町と人が、岐阜へ切り替わる
城を取ることは、防御拠点を手に入れることだけではありません。稲葉山城は、道三・義龍・龍興と続く斎藤氏の政治・軍事の中心であり、城下の井ノ口と長良川の交通につながる場所でした。
| 城主 | 龍興から信長へ。斎藤氏三代の本拠が織田氏の本拠になります。 |
|---|---|
| 地域の関係 | 美濃三人衆が信長に協力し、地域の有力者と新しい城主の関係が組み替わります。 |
| 城下 | 井ノ口は岐阜と改められ、城下を整え直す段階へ進みます。 |
| 信長の進路 | 尾張の大名から、岐阜を基盤に京都・畿内へ進む大名へ、行動の舞台が広がります。 |
美濃の三代から、信長の岐阜へ
城を失った龍興と、信長に残った美濃勢
斎藤龍興は稲葉山城を失っても、その場で生涯を終えたわけではありません。伊勢長島へ逃れた後、三好方や本願寺・朝倉氏など信長と対立する勢力に身を寄せ、1573年の刀根坂付近の戦いで討死したとされます。美濃を失った旧当主が、信長包囲網の側で抵抗を続けたことは、攻略後にも斎藤氏の物語が続くことを示します。
一方、稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就らは織田家臣として美濃支配と各地の戦いを担いました。城主だけが入れ替わったのではなく、斎藤氏を支えた地域勢力の多くを新政権へ取り込めたことが、信長が翌年に上洛できた大きな理由です。
岐阜から、京都へ
信長が京都へ進むのは、攻略の翌年・1568年です。稲葉山城攻略は、中央へ出るための「直前の戦い」ではなく、信長の行動の中心を尾張から美濃へ移す決定的な段階でした。
信長は1567年から安土へ移る1576年まで岐阜を本拠とし、城と城下を整えます。美濃を取ったことと、岐阜という新しい政治・経済の拠点をつくったことは、同じ転換の二つの面です。
ここだけ覚える
- 稲葉山城攻略は1567年。長良川の戦いから十一年後の出来事。
- 攻略時の斎藤氏当主は、道三でも義龍でもなく、その子の龍興。
- 美濃三人衆は、斎藤氏に仕えた有力者が信長側へ協力した人々。
- 攻略後、井ノ口は岐阜と改められ、信長は翌年に京都へ進む。
稲葉山城攻略についてのよくある疑問
信長はなぜ美濃攻略に10年以上かかったのか?
道三を討った斎藤義龍が有能で、信長の侵攻を何度も退けたためです。義龍が1561年に急死して若い龍興が継ぐと、斎藤家中が揺らぎ、信長は西美濃の国衆を切り崩して攻略を進めました。詳しくは斎藤氏で整理しています。
墨俣一夜城は本当にあったのか?
秀吉が木曽川を使って一夜で砦を築いたという話は、江戸時代の『絵本太閤記』などで広まったもので、同時代の史料にはありません。墨俣に織田方の拠点があった可能性はありますが、「一夜城」の逸話は伝承として読むのが適切です。
なぜ「岐阜」という名前にしたのか?
中国の周の文王が岐山から天下を取った故事にならったとされ、禅僧の沢彦が提案したと伝わります。「天下」を意識した命名で、このころから信長は「天下布武」の印を使い始めました。
斎藤龍興はどうなったのか?
城を追われた龍興は各地を転々とし、三好氏や本願寺、朝倉氏のもとで信長に抵抗を続けました。1573年、朝倉氏の滅亡に巻き込まれて刀根坂で戦死しています。
参考にした資料
攻略の細かな戦術や個別の調略には、史料と後世の逸話が重なる部分があります。1567年の城の取得、龍興の退去、岐阜への改称、本拠移転という確認しやすい流れを軸にしています。