要点
- 出発点は守護・斯波氏の家臣。但馬から越前へ移り、越前守護の斯波氏に仕えた。守護代の甲斐氏と並ぶ有力家臣だった。
- 応仁の乱で孝景が越前を奪った。西軍から東軍へ転じる条件として越前守護職を約束され、1471年に越前へ戻って実質的な支配者となった。下剋上の早い例である。
- 一乗谷に城下町を築いた。山に囲まれた谷に館・武家屋敷・寺社・町屋を整え、五代103年にわたって栄えた。分国法「朝倉孝景条々」も知られる。
- 義景の代に信長と対立した。足利義昭を保護しながら上洛しなかったことで、義昭を擁した信長と対立。金ヶ崎・姉川で戦い、浅井氏と結んで信長を苦しめた。
- 1573年に滅亡した。刀根坂の戦いで大敗し、一乗谷は焼き払われ、義景は自害。大名としての朝倉氏は五代で終わった。
朝倉氏は、どうやって越前の主になったのか
- 01斯波氏の家臣として越前へ
朝倉氏は但馬国(兵庫県北部)の出身とされ、南北朝時代に斯波氏に従って越前に入りました。斯波氏は室町幕府の管領を出す名門で、朝倉氏はその有力家臣として越前に根を張ります。
- 02応仁の乱:東軍へ転じて越前を得る
朝倉孝景は応仁の乱で西軍の斯波氏に従っていましたが、東軍から越前守護職を条件に誘われて寝返りました。1471年に越前へ戻り、守護代の甲斐氏を追って越前をほぼ手中にします。
- 03一乗谷を本拠に
孝景は一乗谷に本拠を定め、家臣を集住させました。家臣への心得を記した「朝倉孝景条々」は、戦国大名の分国法の早い例として知られます。
朝倉氏は、守護の家臣が主家を押しのけて一国を治めた型の戦国大名です。同じ型の織田氏より半世紀以上早く、下剋上の先駆けといえます。孝景の歩みは朝倉孝景で整理しています。
一乗谷は、どんな城下町だったのか
- 谷ごと城下町にした。一乗谷は山に囲まれた細長い谷で、出入口を城戸で固め、谷の中に当主の館、武家屋敷、寺院、職人や商人の町屋を計画的に配した。背後の山には詰めの城があった。
- 京都の文化が流れ込んだ。応仁の乱で荒れた京都から公家や僧、連歌師が一乗谷を訪れた。当主の館には庭園が造られ、茶の湯や連歌が盛んだった。
- 五代103年続いた。孝景・氏景・貞景・孝景(十代)・義景と続き、一族の朝倉宗滴が軍事を支えた。加賀の一向一揆との戦いが長く続いた。
- 足利義昭を迎えた。1566年、兄の義輝を殺された足利義昭が一乗谷に身を寄せ、翌年ここで元服した。朝倉氏は将軍候補を抱える立場になったが、上洛には動かなかった。
発掘で明らかになった町の姿は一乗谷朝倉氏遺跡のページで読めます。
朝倉氏はなぜ、信長に滅ぼされたのか
- 01義昭が信長のもとへ
上洛に動かない朝倉氏を見限った足利義昭は、1568年に織田信長を頼って上洛し、将軍となりました。信長は義昭の名で朝倉義景に上洛を求めましたが、義景は応じませんでした。
- 021570年:金ヶ崎と姉川
信長は越前へ攻め込みますが、浅井長政の離反で撤退(金ヶ崎の退き口)。同年の姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍は織田・徳川軍に敗れました。
- 03信長包囲網の一角に
朝倉氏は浅井氏・本願寺・武田氏らと結んで信長に対抗し、比叡山に陣取って信長を苦しめました。しかし決定的な打撃は与えられず、武田信玄の死で包囲網は崩れます。
- 041573年:刀根坂の敗北と滅亡
小谷城の救援に出た義景は、撤退中に刀根坂で信長軍に追撃されて大敗。一乗谷へ戻りますが、一族の裏切りにあって自害しました。一乗谷は焼き払われ、朝倉氏は滅びました。
朝倉氏をめぐる人物
朝倉氏についてのよくある疑問
一乗谷はなぜ「遺跡」として残ったのか?
1573年に焼き払われたあと、越前の中心は北ノ庄(福井)に移り、一乗谷は再び町として使われることがありませんでした。そのため焼けた町がそのまま土に埋もれ、江戸時代を通じて田畑の下に眠り続けたのです。昭和40年代からの発掘で、当主の館、武家屋敷、町屋、庭園が道路の配置まで含めて見つかり、戦国時代の城下町全体が分かる例として国の特別史跡・特別名勝・重要文化財の三重指定を受けています。
義景はなぜ足利義昭を連れて上洛しなかったのか?
理由ははっきりしませんが、加賀の一向一揆との長年の戦いで越前を空けられなかったこと、上洛しても幕府を支える見返りが見えにくかったこと、家中に慎重論があったことなどが考えられています。結果として義昭は信長を頼り、朝倉氏は「将軍を擁する大名」になる機会を逃したうえに、将軍の名で敵とされる立場になりました。
朝倉氏は本当に弱かったのか?
義景個人の評価として「優柔不断」と語られることが多いですが、朝倉氏は信長包囲網の中核として数年にわたって信長を苦しめており、弱小とはいえません。ただし一族の軍事を支えた朝倉宗滴が1555年に亡くなって以降、家中をまとめる人材を欠いていたこと、当主自身が出陣を家臣任せにしがちだったことは、滅亡の一因とみられています。
滅亡後、朝倉の家は残ったのか?
大名としての朝倉氏は義景で終わり、一族の多くは戦死・自害しました。ただし義景の従兄弟にあたる朝倉景鏡のように信長に降った者や、一族・家臣で他家に仕えた者がおり、朝倉の名を伝える家は江戸時代にも旗本などとして存在しました。一乗谷の発掘が進んだ現在、朝倉氏は「滅んだ家」としてより、戦国の城下町を今に伝える家として知られるようになっています。