要点
- 当主にならずに家を支えた。初代孝景の末子として生まれ、兄の氏景、その子の貞景らの当主を一門として支えた。家督争いで一時は追われたが、貞景に許されて軍事を任された。
- 九頭竜川で一向一揆を破った。1506年、越前へ攻め込んだ加賀一向一揆の大軍を九頭竜川で迎え撃ち、少数で破った。朝倉氏の越前支配を固めた戦い。
- 畿内にも出兵した。1527年、将軍足利義晴・細川高国を支援して上洛し、三好元長らと戦った。朝倉氏の軍事力は畿内でも知られた。
- 加賀へ攻め込んだ。晩年まで加賀の一向一揆と戦い続け、1555年の加賀出兵中に病死した。79歳。
- 言葉が残った。宗滴の話を家臣がまとめた『朝倉宗滴話記』には、「武者は犬とも言え畜生とも言え、勝つことが本にて候」などの言葉が残る。
何をした人物か
宗滴は朝倉氏の初代・孝景の子として生まれました。家督は兄の氏景が継ぎ、宗滴は一門の一人として育ちます。若いころ、一族の家督争いに関わって一時は越前を離れましたが、当主の貞景に許されて戻り、以後は朝倉氏の軍事指揮官として働きました。当主でない一門が軍事の全権を預かる形は、朝倉氏の特徴の一つです。
1506年、加賀の一向一揆が大軍で越前に攻め込むと、宗滴は九頭竜川でこれを迎え撃ち、少数で大軍を破りました。この勝利で朝倉氏の越前支配は固まり、宗滴の名は周辺諸国に知られます。1527年には将軍足利義晴と細川高国を支援して上洛し、三好元長らの軍と戦いました。朝倉氏が畿内の政治に関わる際の軍事力は、宗滴が担っていました。
宗滴は加賀の一向一揆と生涯戦い続け、1555年、加賀への出兵中に陣中で病を得て一乗谷に戻り、死去しました。79歳でした。宗滴の死は朝倉氏にとって大きな痛手で、18年後の滅亡の遠因とする見方もあります。家臣がまとめた『朝倉宗滴話記』には、戦国武将の現実的な考え方を示す言葉が多く残り、宗滴の名を今に伝えています。
年表で追う
- 011477年:誕生
朝倉孝景の末子として生まれる。
- 021503年ごろ:貞景のもとで軍事を担う
一族の争いののち、当主・貞景に許されて軍事指揮官となる。
- 031506年:九頭竜川の戦い
加賀一向一揆の大軍を破る。
- 041527年:上洛
将軍義晴・細川高国を支援して畿内へ出兵。
- 051555年:死去
加賀出陣中に病を得て一乗谷で死去。79歳。
宗滴を読むときに気をつけたいこと
- 「宗滴」は出家後の名。生前の多くの時期は朝倉教景と名乗った。同名の朝倉教景が一族に複数いるため、区別のため宗滴と呼ぶのが一般的。
- 『朝倉宗滴話記』は宗滴本人の著作ではない。家臣の萩原宗俊が宗滴の話をまとめたもので、成立は宗滴の死後。言葉の一つ一つが宗滴の発言そのものとは限らない。
- 「宗滴の死が滅亡を招いた」は結果論を含む。軍事の柱を失ったことは確かだが、滅亡までには18年あり、義景の代の判断や情勢も大きい。