要点
- 一揆が、大名の国を丸ごと乗っ取った。1573年に信長が朝倉氏を滅ぼすと、越前は織田方の武将が治めた。しかし翌1574年、一向一揆が蜂起して織田方の代官を討ち、敵対する平泉寺も焼いて、越前は「一揆持ちの国」になる。本願寺は坊官・下間頼照を総大将として送り込み、越前は加賀に続く事実上の本願寺領国になった。
- ただし、内側はまとまっていなかった。指導部の坊官・坊主と現地の門徒の対立が絶えず、支配は最初から不安定だった。防衛線の鉢伏山に籠城した僧・賢会の書状には、統制が崩れていく一揆の実態が記されている。国を奪う力と、国を治める力は別物だった。
- 1575年8月、信長10万余が殲滅した。一揆勢は木ノ芽峠・鉢伏山の防衛線を破られ、越前はまたたく間に制圧された。信長は再蜂起を防ぐため国中で徹底した「一揆狩り」を行い、総大将の下間頼照は逃亡の途中、同じ真宗でも別系統の高田派門徒に討たれた。一向一揆の越前支配は1年半で終わり、越前の「一揆の時代」はここで終結した。
朝倉との61年から、殲滅まで
- 011506年、九頭竜川の戦い(前史)
加賀を支配していた一向一揆は、30万と号する大軍で越前へ攻め込んだが、九頭竜川で朝倉氏に大敗した。以後、朝倉氏は本願寺系の真宗を国内で厳しく禁じ、加賀の一揆との対立は約61年続いた。
- 021569年、朝倉と本願寺が手を結ぶ
信長という共通の敵の出現で、61年争った朝倉氏と本願寺は反信長の側で同盟し、越前での一向宗禁制も解かれた。昨日の敵との同盟が、のちの一揆の下地を作る。
- 031573年8月、朝倉氏滅亡
信長の越前侵攻で朝倉義景は自害し、越前は織田方の武将が治めることになった。旧朝倉家臣の内紛も続き、統治は安定しなかった。
- 041574年、一揆が国を奪う
一向一揆が蜂起して織田方の代官を討ち、大野郡の一揆勢は村岡山に城を構えて平泉寺を焼き討ちした。本願寺は下間頼照を総大将として下向させ、越前は本願寺領国として支配される。
- 051575年8月、信長の再侵攻
信長は10万余を率いて出陣。一揆勢は本覚寺・西光寺・専修寺など坊主分の率いる軍勢が木ノ芽峠・鉢伏山一帯を守ったが、防衛線を破られて越前は短期間で制圧された。信長は国中で一揆狩りを行い、下間頼照も討たれた。
- 06戦後——勝家と府中三人衆
信長は越前の大部分を柴田勝家に与えて北庄に置き、府中周辺には前田利家・佐々成政・不破光治のいわゆる府中三人衆を配した。越前は加賀の一向一揆を攻める最前線の基地に変わった。
殲滅の凄まじさは、何で確かめられるか
語られ方 死骸ばかりの府中
この制圧戦では、府中の町は死骸ばかりで足の踏み場もない、と信長自身が書状に記したと伝わる。長島の焼き殺しと並ぶ徹底ぶりで、殺害・捕縛された人数は数万に及んだともいわれるが、正確な数字を確かめることは難しい。
史料と実物 処刑を刻んだ瓦
福井県には生々しい実物が残る。武生(越前市)に伝わる天正年間の文字瓦には、一揆が起こり、前田利家が一揆勢約1000人を生け捕りにして、はりつけや釜あぶりに処したことが刻まれている。また鉢伏山に籠城した僧・賢会の書状は、崩れていく一揆の内情を当事者の筆で伝えている。いずれも福井県史が紹介する資料になる。
越前一向一揆から、何が見えるのか
- 国を奪う力と、国を治める力は別物だった。加賀の一揆が約100年続いたのに対し、越前は1年半で崩れた。加賀が現地の門徒と国人の連合として育ったのに対し、越前は本願寺が上から坊官を送り込む統治で、門徒の反発を招いた。同じ一向一揆でも、成り立ちの違いが寿命を分けた。
- 信長の対一向宗戦の、事実上の決着点だった。1574年に長島、1575年に越前と、信長は一向一揆の拠点を一年ごとに潰した。陸の拠点を失った本願寺に残るのは大坂の石山だけになり、以後の石山合戦は海上補給をめぐる持久戦へ変わっていく。
- 真宗どうしの対立も戦いを動かした。総大将の下間頼照を討ったのは、織田軍ではなく高田派の門徒だった。越前には本願寺系と対立する真宗の系統が根を張っており、「一向宗vs信長」の単純な構図では読めない。一揆の内と外に、いくつもの断層があった。