1428〜1481年 / 戦国大名朝倉氏の初代・応仁の乱・一乗谷・朝倉孝景条々

朝倉孝景あさくら たかかげ

朝倉孝景は、戦国大名としての朝倉氏の初代にあたる人物です。出家後の名から英林孝景えいりん たかかげとも呼ばれ、五代目の同名の当主と区別されます。越前守護・斯波氏の家臣でしたが、応仁の乱で西軍から東軍へ転じる際に越前守護職を約束され、1471年に越前へ戻って守護代の甲斐氏を追い、越前の実質的な支配者となりました。一乗谷を本拠に定め、家臣への心得を記した「朝倉孝景条々」を残しています。守護の家臣が一国を奪った、下剋上の早い例です。

斯波氏の家臣から越前の主へ 1471年 応仁の乱で東軍へ転じる 一乗谷を本拠に 朝倉孝景条々

要点

  • 斯波氏の有力家臣だった。朝倉氏は越前守護・斯波氏に仕え、守護代の甲斐氏と並ぶ力を持っていた。孝景は斯波氏の家督争いにも深く関わった。
  • 応仁の乱で寝返り、越前を得た。当初は西軍の斯波義廉方として京都で戦ったが、東軍から越前守護職を条件に誘われて転じ、1471年に越前へ戻った。
  • 守護代を追い、越前をほぼ統一した。斯波氏の守護代・甲斐氏と戦って越前から追い、実質的な守護となった。ただし幕府から正式に守護に任じられたかには議論がある。
  • 一乗谷に本拠を定めた。谷に家臣を集め、城下町の基礎を作った。五代103年続く一乗谷の出発点。
  • 「朝倉孝景条々」を残した。家臣への心得を記したもので、世襲の重臣を置かない、城は一乗谷だけにして家臣を集住させる、といった内容を含む。戦国大名の分国法の早い例とされる。
人物

何をした人物か

朝倉氏は斯波氏の家臣として越前に根を張っていましたが、孝景の代に斯波氏で家督争いが起き、それが応仁の乱の一因となります。孝景は西軍側の斯波義廉しば よしかどに従って京都で戦い、西軍きっての武将として知られました。

しかし東軍側は、越前守護職を与えることを条件に孝景を誘います。1471年、孝景はこれに応じて越前へ戻り、西軍側の守護代・甲斐氏と戦って越前から追いました。主家である斯波氏を押しのけ、家臣が一国を手に入れた形です。この動きは、のちに各地で起こる下剋上の先駆けとされます。

孝景は一乗谷を本拠と定め、家臣を集めて城下町の基礎を作りました。晩年に残したとされる「朝倉孝景条々」は、重臣を世襲させず能力で選ぶこと、家臣は一乗谷に住まわせること、無駄な出費を避けることなどを説いています。孝景は1481年に死去。朝倉氏は子の氏景以降、五代にわたって越前を治めました。

年表

年表で追う

  1. 011428年:誕生

    朝倉氏の当主の子として生まれる。

  2. 021467年:応仁の乱

    西軍の斯波義廉方として京都で戦う。

  3. 031471年:東軍へ転じ、越前へ

    越前守護職を条件に東軍につき、越前へ戻って甲斐氏と戦う。

  4. 041470年代:越前をほぼ統一

    一乗谷を本拠に定める。

  5. 051481年:死去

    家督は氏景へ。

注意点

孝景を読むときに気をつけたいこと

  • 同名の当主が二人いる。初代の孝景(英林孝景)と、義景の父にあたる十代目の孝景は別人。このページは初代を扱う。
  • 越前守護に正式に任じられたかは議論がある。東軍から守護職を約束されたことは確かだが、幕府の正式な任命があったかについては見方が分かれる。実質的な支配者になったことは確か。
  • 「朝倉孝景条々」の成立時期と作者には諸説ある。孝景本人が定めたとするのが通説だが、後世にまとめられた可能性も指摘されている。内容が朝倉氏の統治方針を示すことは変わらない。
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参考にした資料