分国法とは?
分国法とは、戦国大名が自分の領国だけに通用させるために定めた法のことです。領国の武士や農民を、大名自身の決まりと裁きの下に置くための道具でした。十五世紀末に越前の朝倉孝景が家訓を残し、それに続いて十六世紀の前半から後半にかけて、駿河・陸奥・甲斐・南近江など各地の大名が次々に自前の法を作っています。名前も条数も家ごとに違い、中には家臣の側が書いたものもありました。
家訓から——法になる前に、家の心得が条に並んだ
越前(今の福井県)の朝倉孝景は晩年、子の氏景と孫の貞景に家訓(家に伝える心得)を残した。1479年(文明11)から1481年(文明13)の間に成立したとされる。宿老(家の重臣)の登用、目付(見張り役)の配置、合戦の教訓、築城の禁止、国内の巡行、訴訟の扱い。政務の要所が、短く印象的な文章で一条ずつ並ぶ。のちに朝倉孝景条々と呼ばれるこの家訓は、戦国大名のものの考え方を具体的にまとめたものとして知られてきた。原本は消失し、今伝わるのは後世の写本である。越前松平家に伝わった写本の外題は「朝倉家之拾七ケ条」で十七か条を名乗るが、現代語訳の底本になった本は第十六条で終わり、全体の条数は史料では確定できない。
実利 名刀一振りより、安い鑓を百挺
朝倉孝景条々の第四条は、晩年の孝景が名刀をむやみに買うことを戒めた条である。一万疋(銭を数える単位)の太刀を一人に持たせても、百疋の鑓を持った百人にはかなわない。同じ額で鑓を百挺そろえて百人に持たせれば、一方面は防げる。数と値段で武具を測る考え方が、そのまま条文になっている。
城の禁止 有力な家臣を、一乗谷へ集めた
朝倉孝景条々には、同じ晩年の条として、朝倉の館のほかに国内へ城郭を造らせてはならない、所領を持つ者はみな一乗谷へ引越し、郷村には代官と百姓だけを置け、という定めもある。家臣を城下に集めるこの条は、江戸幕府の一国一城令の先駆と評価されてきた。近年は、たえず修築の要る中世の城を減らし、財政の負担を軽くする狙いもあったと指摘されている。
最初の法——私闘の決着を、大名の裁きに移した
1526年(大永6)、駿河(今の静岡県)の今川氏親が今川仮名目録を定めた。家訓が当主の心得を説くものだったのに対し、こちらは家臣が守るべき決まりを条ごとに並べた法であり、戦国大名による実質的に最初の分国法とされる。中でも知られるのが、家臣団をまとめるために私闘(私的な武力の争い)を厳しく禁じた条項だった。
喧嘩両成敗 争った当人に、決着をつけさせない
1526年の今川仮名目録には、家臣団を統率するため私闘を厳しく禁じた喧嘩両成敗法の条項がある。当事者どうしが実力で決着をつけることを、この条項は許さなかった。
新しさ 大名が、自分で法を定めた
自分の領国だけに通用する法を、大名が自前で定めた点が新しかった。領国の武士と農民を、自分の法の下に置いた。以後、各地の大名が同じことを始める。
最も細かく——171か条が、殺害から婚姻まで決めた
1536年(天文5)4月14日、陸奥の伊達稙宗が塵芥集を定めた。伊達家14代の当主による171か条で、数ある戦国家法の中で最も完備されたものと評されてきた。家臣たちが守るべきことがらを、百数十か条にわたって定めている。
条の並び 刑事の規定が、全体の三分の一を占めた
1536年の塵芥集は、神社、寺院、殺害・盗賊などの刑事、土地、売買や婚姻の順に条文が並ぶ。刑事法だけで全条文の約三分の一を占め、ほかの分国法と比べて詳しさが際立つ。土地の売買・賃借・質入や境界、婚姻に関する規定が数十条に及ぶ点も、この法の特色とされる。
起請文 巻末で、重臣が並んで誓った
塵芥集の巻末には、伊達家評定衆(政務を合議する重臣)の起請文(神仏に誓う文書)が付されている。制定した稙宗の花押(署名がわりの記号)に続けて評定衆の花押が並び、連署した十一人のうち六人分が現状で確認できる。重要文化財で、仙台市博物館が所蔵している。
隣国に学ぶ——甲斐の法に、駿河の法の跡が残る
1547年(天文16)、甲斐(今の山梨県)の武田信玄が領国を治めるために定めたのが甲州法度之次第で、信玄家法とも呼ばれる。家臣に対するさまざまな規律が主な内容である。同じ名で呼ばれる本は、条数の違う二つの系統に分かれて伝わっている。
二つの伝本 26か条の原型と、55か条の流布本
甲州法度之次第の伝本(伝わっている写し)は、26か条本と、55か条に追加2か条を加えた本の二種に大別される。26か条本は1547年(天文16)6月に成立した原型である。これが増補改訂を経て55か条に整理され、1554年(天文23)5月にさらに2か条が加えられた。
駿河の影 隣国の法から、強い影響を受けた
1547年から1554年にかけて整えられた甲州法度之次第には、全体として隣国駿河の今川氏の法から強い影響を受けた跡が認められる。分国法は、隣の領国で先に作られた法を読み、その形を借りながら積み上げられていった。55か条の系統は『甲陽軍鑑』に採録され、世に広く流布した。
家臣が書く——当主の父子が、守ると誓わされた
1567年(永禄10)4月、南近江(今の滋賀県)の六角家では、三上恒安ら20名の重臣が67か条の家法を起草した。義治式目とも呼ばれる六角氏式目である。重臣との対立もあって家中が混乱するなか、領国の再建を目指して定められた。ただし、その作られ方はほかの分国法と向きが逆だった。
異例 重臣20人が起草し、当主が誓った
1567年の六角氏式目は、三上恒安ら20名の重臣が起草した67か条に対して、当主の六角義治が父の承禎(義賢)とともに遵守を誓う形式を採っている。大名が家臣に守らせるために定めるほかの戦国家法とは、同一に論じ得ない内容を含む法である。
分国法の疑問に答える
それまでの武家の法と、どうつながる?
型を借りている。塵芥集は、第一条に神社を置き、巻末に起請文を置くという構成など、武家法の始まりである貞永式目(御成敗式目)に体裁を倣っている。その体裁の上に、土地の売買や婚姻といった、領国の実情に合う規定を積み上げた。型は借り物で、中身は領国ごとに書き足されたものである。
大名ごとに、どれくらい違う?
名前も形も条数も別になる。朝倉孝景条々は家訓の形をとり、塵芥集は171か条、甲州法度之次第は26か条本と55か条本の二系統、六角氏式目は67か条。共通するのは、領国の武士と農民を、大名自身の決まりと裁きの下に置くという狙いである。
朝倉孝景条々も、分国法に数える?
家訓であり、法の形になる前のものである。成立は分国法が並ぶ十六世紀より半世紀ほど早い。宿老の登用、築城の禁止、裁判の公正といった、のちの分国法が扱う事柄をすでに含んでいる。
法が届いたのは、家臣だけ?
農民にも及んだ。分国法は、戦国大名が領国の武士や農民を支配するために独自に定めたものだった。
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参考にした資料
- 仙台市博物館「キッズコーナー」(分国法の定義・領国の武士や農民を支配するために独自に定めたものであること・塵芥集が百数十か条にわたること)
- 明治大学博物館「今川仮名目録」(実質的に最初の分国法という位置づけ・1526年の制定・家臣団統率のため私闘を厳禁した喧嘩両成敗法の条項)
- 福井県文書館「朝倉孝景条々」(1479年から1481年の成立・原本の消失と写本の現存・越前松平家伝来本の外題・第四条の鑓・城郭の禁止と一乗谷への集住・一国一城令の先駆という評価と財政負担軽減の指摘)
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「朝倉氏の歴史」(子の氏景と孫の貞景に残した家訓であること・宿老の登用や目付の配置、合戦の教訓、築城の禁止、国内巡行、訴訟という内容)
- 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館「朝倉英林壁書 現代語訳文」(第一条の宿老登用・裁判の公正を定めた条・第十六条で終わる条立て)
- 文化庁 文化遺産オンライン「塵芥集」(1536年4月14日の制定・171か条・貞永式目に倣う体裁・条文の構成と刑事法が約三分の一を占めること・評定衆起請文と花押・重要文化財の指定日と所蔵)
- 宮城県「塵芥集」(最も完備された戦国家法という評価・私法に関する規定が数十条に及ぶこと)
- 東京大学デジタルアーカイブズポータル「甲州法度之次第」(26か条本と55か条本の二系統・1547年6月の原型と1554年5月の追加・今川氏の法からの強い影響・『甲陽軍鑑』への採録)
- 甲府市「武田氏三代の歴史」(1547年の制定と別名「信玄家法」)
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース/滋賀県立図書館「六角氏式目が制定された経緯」(1567年4月の制定・義治式目の別名・家中の混乱と領国再建・三上恒安ら20名の重臣が起草した67か条・当主父子が遵守を誓う形式)