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分国法ぶんこくほう

分国法とは?

分国法とは、戦国大名が自分の領国だけに通用させるために定めた法のことです。領国の武士や農民を、大名自身の決まりと裁きの下に置くための道具でした。十五世紀末に越前の朝倉孝景が家訓を残し、それに続いて十六世紀の前半から後半にかけて、駿河・陸奥・甲斐・南近江など各地の大名が次々に自前の法を作っています。名前も条数も家ごとに違い、中には家臣の側が書いたものもありました。

1479年から1481年ごろ、越前の朝倉孝景が子と孫に家訓を残します。法の形になる前の、当主の心得としての条々でした。
1526年、今川氏親いまがわ うじちかが今川仮名目録を定めます。戦国大名による実質的に最初の分国法とされます。
1536年、伊達稙宗が171か条の塵芥集を定めます。数ある戦国家法の中で最も完備されたものと評されてきました。
1547年、武田信玄が甲州法度之次第を定め、1554年に2か条を加えます。駿河の法の跡が濃く残ります。
1567年、六角氏の重臣20人が起草した67か条に、当主の父子が遵守を誓います。ほかとは向きが逆の法でした。

家訓から——法になる前に、家の心得が条に並んだ

越前(今の福井県)の朝倉孝景は晩年、子の氏景と孫の貞景に家訓かくん(家に伝える心得)を残した。1479年(文明11)から1481年(文明13)の間に成立したとされる。宿老しゅくろう(家の重臣)の登用、目付めつけ(見張り役)の配置、合戦の教訓、築城の禁止、国内の巡行、訴訟の扱い。政務の要所が、短く印象的な文章で一条ずつ並ぶ。のちに朝倉孝景条々と呼ばれるこの家訓は、戦国大名のものの考え方を具体的にまとめたものとして知られてきた。原本は消失し、今伝わるのは後世の写本である。越前松平家に伝わった写本の外題は「朝倉家之拾七ケ条」で十七か条を名乗るが、現代語訳の底本になった本は第十六条で終わり、全体の条数は史料では確定できない。

実利 名刀一振りより、安い鑓を百挺

朝倉孝景条々の第四条は、晩年の孝景が名刀をむやみに買うことを戒めた条である。一万ひき(銭を数える単位)の太刀を一人に持たせても、百疋のやりを持った百人にはかなわない。同じ額で鑓を百挺そろえて百人に持たせれば、一方面は防げる。数と値段で武具を測る考え方が、そのまま条文になっている。

城の禁止 有力な家臣を、一乗谷へ集めた

朝倉孝景条々には、同じ晩年の条として、朝倉のやかたのほかに国内へ城郭を造らせてはならない、所領を持つ者はみな一乗谷へ引越し、郷村ごうそんには代官と百姓だけを置け、という定めもある。家臣を城下に集めるこの条は、江戸幕府一国一城令の先駆と評価されてきた。近年は、たえず修築の要る中世の城を減らし、財政の負担を軽くする狙いもあったと指摘されている。

最初の法——私闘の決着を、大名の裁きに移した

1526年(大永6)、駿河(今の静岡県)の今川氏親が今川仮名目録を定めた。家訓が当主の心得を説くものだったのに対し、こちらは家臣が守るべき決まりを条ごとに並べた法であり、戦国大名による実質的に最初の分国法とされる。中でも知られるのが、家臣団をまとめるために私闘しとう(私的な武力の争い)を厳しく禁じた条項だった。

喧嘩両成敗 争った当人に、決着をつけさせない

1526年の今川仮名目録には、家臣団を統率するため私闘を厳しく禁じた喧嘩両成敗けんかりょうせいばい法の条項がある。当事者どうしが実力で決着をつけることを、この条項は許さなかった。

新しさ 大名が、自分で法を定めた

自分の領国だけに通用する法を、大名が自前で定めた点が新しかった。領国の武士と農民を、自分の法の下に置いた。以後、各地の大名が同じことを始める。

最も細かく——171か条が、殺害から婚姻まで決めた

1536年(天文5)4月14日、陸奥の伊達稙宗が塵芥集を定めた。伊達家14代の当主による171か条で、数ある戦国家法の中で最も完備されたものと評されてきた。家臣たちが守るべきことがらを、百数十か条にわたって定めている。

条の並び 刑事の規定が、全体の三分の一を占めた

1536年の塵芥集は、神社、寺院、殺害・盗賊などの刑事、土地、売買や婚姻の順に条文が並ぶ。刑事法だけで全条文の約三分の一を占め、ほかの分国法と比べて詳しさが際立つ。土地の売買・賃借・質入や境界、婚姻に関する規定が数十条に及ぶ点も、この法の特色とされる。

起請文 巻末で、重臣が並んで誓った

塵芥集の巻末には、伊達家評定衆ひょうじょうしゅう(政務を合議する重臣)の起請文きしょうもん(神仏に誓う文書)が付されている。制定した稙宗の花押かおう(署名がわりの記号)に続けて評定衆の花押が並び、連署した十一人のうち六人分が現状で確認できる。重要文化財で、仙台市博物館が所蔵している。

隣国に学ぶ——甲斐の法に、駿河の法の跡が残る

1547年(天文16)、甲斐(今の山梨県)の武田信玄が領国を治めるために定めたのが甲州法度之次第で、信玄家法とも呼ばれる。家臣に対するさまざまな規律が主な内容である。同じ名で呼ばれる本は、条数の違う二つの系統に分かれて伝わっている。

二つの伝本 26か条の原型と、55か条の流布本

甲州法度之次第の伝本でんぽん(伝わっている写し)は、26か条本と、55か条に追加2か条を加えた本の二種に大別される。26か条本は1547年(天文16)6月に成立した原型である。これが増補改訂を経て55か条に整理され、1554年(天文23)5月にさらに2か条が加えられた。

駿河の影 隣国の法から、強い影響を受けた

1547年から1554年にかけて整えられた甲州法度之次第には、全体として隣国駿河の今川氏の法から強い影響を受けた跡が認められる。分国法は、隣の領国で先に作られた法を読み、その形を借りながら積み上げられていった。55か条の系統は『甲陽軍鑑』に採録され、世に広く流布した。

家臣が書く——当主の父子が、守ると誓わされた

1567年(永禄10)4月、南近江(今の滋賀県)の六角家では、三上恒安ら20名の重臣が67か条の家法を起草した。義治式目とも呼ばれる六角氏式目である。重臣との対立もあって家中が混乱するなか、領国の再建を目指して定められた。ただし、その作られ方はほかの分国法と向きが逆だった。

異例 重臣20人が起草し、当主が誓った

1567年の六角氏式目は、三上恒安ら20名の重臣が起草した67か条に対して、当主の六角義治が父の承禎じょうてい(義賢)とともに遵守を誓う形式を採っている。大名が家臣に守らせるために定めるほかの戦国家法とは、同一に論じ得ない内容を含む法である。

分国法の疑問に答える

それまでの武家の法と、どうつながる?

型を借りている。塵芥集は、第一条に神社を置き、巻末に起請文を置くという構成など、武家法の始まりである貞永式目じょうえいしきもく(御成敗式目)に体裁を倣っている。その体裁の上に、土地の売買や婚姻といった、領国の実情に合う規定を積み上げた。型は借り物で、中身は領国ごとに書き足されたものである。

大名ごとに、どれくらい違う?

名前も形も条数も別になる。朝倉孝景条々は家訓の形をとり、塵芥集は171か条、甲州法度之次第は26か条本と55か条本の二系統、六角氏式目は67か条。共通するのは、領国の武士と農民を、大名自身の決まりと裁きの下に置くという狙いである。

朝倉孝景条々も、分国法に数える?

家訓であり、法の形になる前のものである。成立は分国法が並ぶ十六世紀より半世紀ほど早い。宿老の登用、築城の禁止、裁判の公正といった、のちの分国法が扱う事柄をすでに含んでいる。

法が届いたのは、家臣だけ?

農民にも及んだ。分国法は、戦国大名が領国の武士や農民を支配するために独自に定めたものだった。

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参考にした資料