用語ページ / 1615年・戦国の終わり

元和偃武げんなえんぶとは

元和偃武げんなえんぶは、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣豊臣家が滅んだ直後、元号が「元和げんな」と改められ、長く続いた戦乱の時代が終わったことを指す言葉です。「偃武えんぶ」は武器を伏せて用いない、という意味で、古典の「偃武修文」(武を偃せて文を修める)に由来します。幕府は同じ年のうちに、一国一城令・武家諸法度・禁中並公家諸法度を矢継ぎ早に出し、「戦のない時代」を言葉だけでなく制度で固めました。

1615年・元和に改元 偃武=武器を伏せる 法度の三点セット 約250年の平和の起点

要点

  • 「元和偃武」は改元と宣言のセット。大坂夏の陣の2か月後、元号が慶長から元和に改められた。新しい時代の名前とともに「もう戦はしない」と示す、区切りの言葉になった。
  • 宣言の裏付けは、同じ年の三つの法だった。一国一城令(大名の城を居城一つに)、武家諸法度(大名のルール)、禁中並公家諸法度(朝廷・公家のルール)。武士と朝廷の両方を、戦の前提ごと縛った。
  • 「戦えない仕組み」を先に作った。城を減らせば籠る場所がなくなり、無断の築城・婚姻を禁じれば戦の準備ができない。戦意ではなく戦の道具を取り上げるのが、この年の立法の発想だった。
  • 朝廷まで枠に入れたのが新しかった。禁中並公家諸法度は、天皇・公家の役割まで法で定めた初めての試み。二条城で、前関白・将軍秀忠・大御所家康の三者連署で定められた。戦国のように朝廷の権威が争いに使われる道を塞いだ。
  • 実際に、大きな内戦は途絶えた。島原の乱(1637年)などを最後に、大名どうしの戦争は幕末まで起きなかった。元和偃武は結果として、約250年の平和の起点になった。
三点セット

1615年に出された法を並べる

対象主な中身狙い
一国一城令西国を中心とする大名大名の城は居城一つだけ残し、他の城は壊す反乱の拠点をなくす。城の数はこの令で激減した
武家諸法度(元和令)すべての大名新しい城を築くことの禁止、無断の婚姻の禁止、学問と武芸への専念など戦の準備そのものを違法にする。以後、将軍の代替わりごとに出し直された
禁中並公家諸法度天皇・公家・門跡天皇は学問を第一とすること、官位や改元の運用、公家の席次など17か条朝廷の権威が政治や戦に持ち出されない枠を作る。二条城で三者連署により制定

三つとも豊臣家が滅んだ直後の数か月に集中して出されている。大坂の陣の勝利を「次の戦を不可能にする制度」へ即座に変換したところに、家康の戦後設計の速さが表れている。

ことば

「偃武」という言葉を選んだ意味

  • 武を「捨てる」ではなく「伏せる」。偃武の偃は、伏せて横たえるという字。武士の世を否定するのではなく、武器を使わずに置いておく——武家政権が自分の存在を否定せずに平和を宣言するための、絶妙な言葉選びだった。
  • 「元和」は中国の年号からの引用とされる。唐の時代の年号にならったとされ、戦乱を鎮めた時代の名を借りる形になっている。改元は朝廷の仕事だが、この改元は幕府の意向が強く働いたとみられている。
  • 「元和偃武」という四字は後世の呼び名。1615年当時にこの四字の宣言があったわけではなく、この年を境に戦が終わったことを後からまとめて呼んだ言葉。ただし呼び名として定着するだけの実態が、その後の250年にあった。
どう読むか

元和偃武から、戦国の終わりを読む

  • 戦国の終わりは「戦いの勝利」ではなく「制度の完成」だった。関ヶ原でも大坂の陣でもなく、戦えない仕組みが法として出そろった1615年を「終わり」と呼ぶのがこの言葉。戦国が刀で終わったのではなく、紙で終わったことをよく示している。
  • 豊臣政権のやり残しを、全部法にした。私戦の禁止(惣無事令)、城の統制、朝廷の管理——秀吉が個別の命令でやっていたことを、幕府は誰にでも適用される恒久の法に変えた。戦国を終わらせる方法自体が、秀吉から家康へ引き継がれて完成した。
  • 平和は「浪人の失業」と引き換えだった。戦がなくなれば、戦で生きてきた武士の居場所も消える。大坂城に集まった浪人衆の姿は、元和偃武の裏面そのもの。平和の制度化は、武士という身分の作り替えの始まりでもあった。

大名統制の法は武家諸法度、平和の仕組みの完成形は参勤交代で整理しています。

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参考にした資料