要点
- 浪人衆は関ヶ原の「置き土産」だった。関ヶ原後の改易88家で、主を失った武士が大量に生まれた。平和になって新規の召し抱えは減り、行き場のない武士が全国にあふれていた。
- 豊臣家には金と名分があった。秀吉の遺した金銀が兵を雇う原資になり、「太閤殿下の家を守る」ことが浪人たちの名分になった。城に集まった浪人は10万に及んだともいわれる。
- 五人衆は「元大名とその重臣」クラス。盛親は土佐22万石の元大名、信繁は上田の名門真田の子、全登は宇喜多家の執政、勝永は豊前の大名の子、又兵衛は黒田家の名将。いずれも一軍を任せられる経歴の持ち主だった。
- 再仕官できない事情も人それぞれ。改易で家ごと消えた者、主家と衝突して出奔した者、奉公構(旧主が他家への仕官を妨害する措置)で行き場を失った者。又兵衛は黒田家の奉公構で仕官の道を断たれていた。
- 五人とも大坂で人生を終えた。又兵衛・信繁・勝永は夏の陣で戦死または自害、盛親は捕らえられて処刑、全登は乱戦の中で行方不明。浪人衆の戦いは、戦国という時代そのものの最期だった。
大坂五人衆の一覧
| 出自 | なぜ浪人に | 大坂での役割と最期 | |
|---|---|---|---|
| 真田信繁(幸村) | 信濃上田・真田昌幸の次男 | 関ヶ原で西軍につき、父とともに九度山へ流される | 真田丸で徳川方を撃退。夏の陣では家康本陣に突撃し、討死。「日本一の兵」と称えられた |
| 後藤又兵衛(基次) | 黒田家の重臣。朝鮮出兵などで武名を挙げる | 主君・黒田長政と不和になり出奔。奉公構で他家に仕官できず | 浪人衆の重鎮として軍議を支える。夏の陣の道明寺の戦いで、霧の中の先行を強いられ討死 |
| 毛利勝永 | 豊前小倉の大名・毛利勝信の子 | 関ヶ原で父子とも西軍につき改易。土佐山内家の預かりに | 夏の陣の天王寺の戦いで徳川方を正面から突き崩す働きを見せ、最後は秀頼に殉じて自害 |
| 長宗我部盛親 | 土佐22万石の元大名 | 関ヶ原で西軍につき改易。京都で謹慎の身だった | 旧臣を集めて最大級の部隊を率いる。夏の陣の八尾の戦いで藤堂勢と激戦。落城後に捕らえられ処刑 |
| 明石全登 | 宇喜多家の執政。キリシタン武将 | 関ヶ原で主家・宇喜多家が改易され浪人に | キリシタン浪人を率いて戦う。夏の陣の乱戦ののち行方が知れず、生死に諸説が残る |
五人の共通点は、関ヶ原に敗れた側の出身であること。大坂の陣は「関ヶ原の敗者の再戦」という面を持っていた。塙団右衛門や薄田兼相など、五人衆以外にも名の知られた浪人が数多く大坂城に入っている。
なぜ浪人が主力になったのか
- 豊臣家の譜代家臣は、すでに少なかった。豊臣恩顧の大名(福島正則・加藤嘉明ら)は関ヶ原で東軍につき、大坂の陣でも徳川方か、江戸で留め置かれた。秀頼の手元に残った直属家臣だけでは、城を守る兵力に遠く足りなかった。
- 改易が「兵の在庫」を作っていた。関ヶ原後の改易・減封で発生した浪人は数十万人規模ともいわれる。改易は勝者への恩賞の原資である一方、行き場のない武士を野に放つ副作用を持っていた。その副作用が、大坂城に集まって戻ってきた形になる。
- 浪人衆と譜代の間には溝もあった。軍議では、浪人衆が主張する積極策(先手を打って出る野戦)と、豊臣家臣団の籠城策がぶつかったと伝わる。寄せ集めの軍の限界は、指揮系統の一本化ができなかったことにも表れている。
- 戦後、幕府は浪人対策を続けることになる。大坂の陣で浪人問題は消えず、江戸初期の改易ラッシュでむしろ増えた。のちの由井正雪の乱(1651)を経て、幕府は末期養子の緩和など改易を減らす方向へ転じていく。
浪人衆から、大坂の陣を読む
- 大坂の陣は「戦国の失業問題」の爆発だった。戦がなくなれば武士は職を失う。平和の到来と武士の生計の矛盾が、最後にもう一度だけ大戦を起こした。浪人衆の奮戦が強かったのは、彼らにとって最後の就職活動でもあったから。
- 五人衆の最期は、それぞれの「武士の終わり方」。突撃して死ぬ(信繁・又兵衛)、主に殉じる(勝永)、捕らわれて刑死する(盛親)、消息を絶つ(全登)。戦国的な生き方の結末が、五通りの形で並んでいる。
- 敗者が物語の主役になった。江戸時代、大坂の陣の講談や軍記で人気を集めたのは勝った徳川方ではなく、信繁ら浪人衆だった。「滅びる側に付いて全力で戦う」姿が、後世の判官びいきの受け皿になっている。