毛利勝永とは?
豊前小倉(今の福岡県北九州市小倉北区)の城主だった毛利勝信の子として生まれ、関ヶ原の戦いに加わり、大坂の陣では豊臣方として戦った武将です。
父・毛利勝信——資料に多く出てくるのは父のほう
父は毛利勝信、豊前小倉の城主である。父子は資料の上で書き分けられていて、勝永は「毛利豊前守勝永」、父は「毛利壱岐守勝信」と記される。勝永の名を追うと、まず父の名に行き当たる。2011年に図書館へ「毛利豊前守勝永」の伝記を求める問い合わせが寄せられたときも、図書館がまず確認したのは、父の勝信のほうが知られた人物だという点だった。
呼び分け 豊前守と壱岐守、二つの名で書かれる
勝永は豊前守、父の勝信は壱岐守を名乗った。図書館に立てられた質問も「毛利豊前守勝永」という形で記録されている。
記述の量 父について書いた本は数多くある
勝信について記述のある本は数多くある、と図書館は回答している。一方で勝永については、人名辞典の短い項目が挙がるにとどまった。父子のあいだで、残された記述の量に大きな差がある。
豊前小倉——「毛利」を名乗る城主が二度いた土地
父・勝信は豊前小倉、今の福岡県北九州市小倉北区の城主だった。この地に城が築かれたのは1569年で、築いたのは中国地方の毛利氏である。勝信・勝永の家と、この毛利氏とのつながりを述べた公的資料は見あたらない。同じ「毛利」の名を持つ城主が、この土地に二度現れた。
勝信が城主だった時期の小倉について残る記述の一つが、キリスト教の広がりである。小倉で信者が増え始めたのは勝信が城主のときで、次の細川氏の代にはさらに増えたと伝わる。江戸時代の初め、小倉城下の信者は2000人と記録されている。
1569年 城のはじまり——中国地方の毛利氏が築いた
今の小倉城が建つ場所に城が造られたのは1569年である。造ったのは中国地方の毛利氏だった。小倉は本州と九州を結ぶ場所にあり、中津街道や長崎街道の出発点でもあった。
城下の変化 信者が増え始めたのは、勝信の代
小倉でキリスト教の信者が増え始めたのは勝信が城主のときだった。増加は勝信の代に始まり、細川氏の代にさらに広がる。1612年、細川忠興は禁教の命令を出し、教会を壊した。
1600年からの二年——関ヶ原のあと、小倉の城主は細川忠興に代わった
1600年の関ヶ原の戦いに、勝永は加わっている。この戦いのあと、小倉に入ったのは細川忠興だった。忠興は小倉を中心に約39万9千石を治めた。そして1602年、今の小倉城につながる城を新たに築いた。小倉の城主が毛利の家から細川の家へ移ったのは、関ヶ原の戦いからの2年の間だったとみられる。勝永と父がどちらの陣営で戦い、いつ小倉を離れたのかを具体的に記した公的資料は見あたらない。
大坂の陣——豊臣方として、二度の戦いに加わった
1614年から1615年の大坂の陣に、勝永は豊臣方として加わった。冬の陣では城を囲む徳川方との攻防が続き、講和を挟んだ夏の陣では、城の外で戦う野戦になった。勝永がどの方面で誰と戦い、部隊がどう動いたかは、それぞれの戦いのページに置いている。大坂城に浪人が集まった事情と、勝永を含む浪人衆の顔ぶれも、そちらでまとめて扱う。
資料の少なさ——伝記を探しても見つからなかった、という記録が残る
勝永を詳しく知ろうとすると、早い段階で資料の壁に当たる。2011年、公立図書館に「関ヶ原の戦いや大坂の陣に参戦した毛利豊前守勝永の伝記はないか、詳しく書かれた資料でもよい」という問い合わせが寄せられた。蔵書目録とオンラインの両方を調べたが、伝記は見つからなかった。挙がったのは人名辞典の短い項目、勝永にまつわる小説2冊、そして数ページの雑誌記事である。この調査の記録そのものが、勝永について書かれたものの少なさを示す資料になっている。
2011年の調査 小説2冊は主人公が違う
挙がった小説2冊の性格は異なる。1冊は勝永を主人公にした短編、もう1冊は他の武将が主人公で勝永も登場する話である。伝記や評伝と呼べるものは、この時点では見つからなかった。
追い方 人物の側からではなく、戦いの側から名が出る
勝永単独を扱った資料が少ない一方で、勝永の名は関ヶ原の戦いと大坂の陣という二つの大きな戦いの記述の中に現れる。父の勝信について書かれた本も、勝永の家がどこにいたかをたどる手がかりになる。
毛利勝永の疑問に答える
毛利元就の一族なのか?
小倉の地に最初に城を築いたのは中国地方の毛利氏で、勝信・勝永の家とは別に書かれている。両家のつながりを述べた資料は、公的機関の記述の範囲では確認できていない。同じ「毛利」の名で、同じ小倉に城主として現れるため、混同されやすい。
父はどんな人物だったのか?
毛利勝信、壱岐守を名乗り、豊前小倉の城主を務めた。その在城中に小倉でキリスト教の信者が増え始めた。詳しくは前の章にまとめている。
なぜ大坂城に入ったのか?
小倉の城主だった家は、関ヶ原の戦いのあとにその地を離れている。1602年には細川忠興が新しい城を築いているので、それ以前に毛利の家の小倉支配は終わっていたとみられる。大坂城に入った具体的な経緯は、今回参照した資料には書かれていない。城と領地を離れた武将たちが大坂城に集まった全体の事情は、大坂の陣の浪人衆のページで扱う。
今の小倉城に、勝永の代の跡は残っているのか?
今の小倉城は、1602年に細川忠興が築いた城が元になっている。天守は「唐造り」と呼ばれ、4階と5階の間に屋根のひさしがなく、5階が4階より大きい。その天守は1837年に焼失し、今のものは1959年に建てられた。勝信・勝永の代の建物は残っていない。
参考にした資料
- 北九州市小倉北区「小倉城と小倉藩」(1569年に中国地方の毛利氏が城を築いたこと・毛利勝信が城主だった時期に小倉のキリスト教信者が増え始めたこと・城下の信者2000人と1612年の禁教・小倉が本州と九州を結ぶ場所で中津街道や長崎街道の出発点だったこと・関ヶ原の戦いののち細川忠興が約39万9千石を治めたこと・1602年に今の姿につながる城を築いたこと・忠興の生没年と丹後国を与えられたこと・外堀の規模と石垣の積み方・天守の唐造りと1837年の焼失、1959年の再建)
- レファレンス協同データベース 北九州市立中央図書館の事例(「毛利豊前守勝永」という表記・関ヶ原の戦いと大坂の陣に参戦したという枠組み・父が「毛利壱岐守勝信」でそちらのほうが知られていること・2011年に蔵書目録とオンラインを調べても伝記が見つからなかったこと・人名辞典の項目と小説、雑誌記事が挙がったこと・勝信について記述のある本は数多くあること)