毛利勝信とは?
何をした人物か
毛利勝信は、豊臣政権の九州支配を考えるときに重要な大名です。小倉(今の福岡県北九州市小倉北区)にある小倉城は、1569年(永禄12年)に中国地方の毛利氏が城を築いたことに始まり、勝信が城主を務めた時期を経て、関ヶ原後は細川忠興が今のような姿の城を築きました。城を築いた毛利氏と城主だった勝信は、姓は同じでも別の家です。
豊臣秀吉は九州平定の後、戦功のあった武将へ城と領地を改めて割り当てました。豊前(今の福岡県東部から大分県北部)では黒田孝高(くろだよしたか)が京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の六郡を与えられ、天正15年(1587年)に起きた宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)の反抗では、勝信も小早川隆景・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに黒田孝高との和睦を仲介しています。勝信のページからは、豊臣方の大名が九州北部をどのように支えたかが見えてきます。
勝信が城主だった時代には、小倉でキリスト教の信者が増え始めたと伝わります。1549年(天文8年)に鹿児島へ上陸したフランシスコ・ザビエルの布教以来、平戸・博多・小倉・山口へと広がった信仰は、次の細川忠興の代にはさらに増え、江戸時代の初めには小倉城下に信者が2,000人いたと記録されています。
関ヶ原の戦いでは、勝信は石田三成方の西軍に属しました。黒田官兵衛(孝高)に居城の小倉城を攻められ、落城したと伝わります。
年表で追う
1569年(永禄12年)
小倉に築城
中国地方の毛利氏が現在の小倉城がある場所に城を築く。勝信とは別の家。
1587年(天正15年)
豊前の動乱を仲介
宇都宮鎮房の反抗で、勝信は小早川隆景・安国寺恵瓊とともに黒田孝高との和睦を仲介する。
1600年(慶長5年)
関ヶ原
西軍に属し、居城の小倉城を黒田官兵衛に攻め落とされたと伝わる。
参考資料
- 北九州市「小倉城と小倉藩」(小倉城が1569年に中国地方の毛利氏によって築かれ1602年に細川忠興が今の姿にしたこと・毛利勝信が城主だった時期に小倉のキリスト教信者が増え始めたこと)
- 福岡県「グラフふくおか(2013年冬号)黒田藩ゆかりの地」(関ヶ原の戦いで西軍の石田三成方に属した小倉城主・毛利勝信を、黒田官兵衛が攻めて落城させたと伝わること)
- 吉富町教育委員会「黒田氏の入封と宇都宮氏の反抗」(天正15年の宇都宮鎮房の反抗で毛利勝信が小早川隆景・安国寺恵瓊とともに黒田孝高との和睦を仲介したこと・黒田孝高が豊前六郡を与えられた経緯)