人物ページ / 1506〜1552年・イエズス会の宣教師

フランシスコ・ザビエル

フランシスコ・ザビエルとは?

1549年に鹿児島へ上陸し、平戸・山口・京都をまわって大内義隆と大友宗麟に布教を許され、1551年に日本を去った宣教師。宣教師とは、キリスト教を広めるために海を渡った聖職者のことです。上陸したのは今の鹿児島県鹿児島市、布教の拠点にしたのは今の山口県山口市と大分県大分市で、キリスト教が日本に入ったのはこの1549年からです。

1549年8月15日、マラッカ(東南アジアの港町)で出会った薩摩のヤジローに案内されて鹿児島に着き、一宇治城で島津貴久に布教を許されます。
1550年、平戸に入ったポルトガル船の船員にミサ(キリスト教の礼拝)を行うために平戸を訪れます。
1550年11月、山口に着いて大内義隆に謁見(身分の高い人に会うこと)しますが、不首尾(うまくいかないこと)に終わり、12月に山口を発ちます。
1550年12月に堺を経て1551年1月に上洛しますが、日本全土の布教許可は得られず、11日で京都を離れます。
1551年4月、贈物と推薦状を携えて義隆に公式に謁見し、山口での布教を許されます。
1551年9月、大友氏の招きで豊後府内へ移ります。来日から2年後に日本を離れ、翌1552年に死去します。

鹿児島上陸——鉄砲伝来から6年後、薩摩のヤジローに案内されて着いた

フランシスコ・ザビエルは1506年、ナバラ王国の貴族の家に生まれたスペイン人である。イエズス会(キリスト教を広めるために作られた修道会)の創設に加わり、インドや東南アジアで布教を重ねる中で、日本へ渡ることを決めた。

1549年8月15日 ヤジローの案内——人をあやめて、ゴアへ逃れていた男

ザビエルは1549年8月15日、薩摩のヤジロー(アンジロウとも呼ぶ)に案内されて鹿児島に上陸した。ヤジローは人をあやめてインドのゴアに逃れていた薩摩の人で、ザビエルとはマラッカで出会っていた。種子島に鉄砲が着いてから6年後のことである。

一宇治城 貴久との会見——島津氏15代当主が、布教を許した

ザビエルは上陸の年、一宇治城(今の鹿児島県日置市伊集院町にあった島津氏の城。一説に国分の清水とも)で島津貴久に会い、布教の許可を得た。貴久は島津氏15代の当主である。

福昌寺 禅僧との問答——島津家の菩提寺で、住職と宗教を論じた

ザビエルは鹿児島に滞在中、島津家の菩提寺(先祖の墓を守る寺)の福昌寺(曹洞宗の寺)で、住職の忍室文勝と宗教上の問答を行った。

1年余りで退去 なぜ去ったか——仏教勢力の抵抗と、熱意を示さない貴久

ザビエルは1年余りで鹿児島を去った。仏教勢力の抵抗があり、貴久も布教に熱意を示さなかったためである。貴久は南蛮貿易(ポルトガル船との交易)を望んでのちに再び招いたが、ザビエルが鹿児島に戻ることはなかった。ポルトガル船が平戸など他の港へ来るようになると、島津氏は領内での布教を禁じた。

平戸へ——目的は、ポルトガル船の船員のためのミサだった

平戸(今の長崎県平戸市)には1550年、倭寇(日本人と中国人からなり、海を渡って交易と略奪を行った武装集団)の勢力と手を組んだポルトガル船が来航した。船を手引きしたのは、中国の海商で倭寇の頭目でもあった王直で、平戸松浦家25代の領主・松浦隆信(道可とも呼ぶ)が王直を招き入れていた。

1550年 天門寺——船員のミサから、平戸での布教へ

ザビエルは1550年、ポルトガル船の船員にミサを行うために平戸を訪れたが、同じ年に平戸でも布教を始めた。平戸港には後に「天門寺」と呼ばれる教会堂が建てられた。

隆信の判断 なぜ許したか——交易の上でも、よいことだと考えた

松浦隆信は、キリスト教を受け入れることは交易の上でもよいことだと考え、籠手田氏と一部氏(どちらも松浦家に仕えた家臣の家)が改宗することを許した。

山口で断られる——最初の謁見は不首尾に終わった

ザビエルは平戸などを経て、1550年11月に山口(今の山口県山口市)に着いた。山口は大内義隆の本拠で、ザビエルはここを二度訪れることになる。

1550年11月 不首尾の謁見——得るものが少ないまま、12月に発った

ザビエルは1550年11月、大内義隆に謁見したが、不首尾に終わった。この時の滞在は得るものが少なく、12月に山口を発って京都へ向かう。なぜ不首尾に終わったのかは、史料では確定できない。

京都で11日——全土の布教許可を求めたが、幕府も朝廷も衰えていた

ザビエルは1550年12月、堺(今の大阪府堺市の港町)を経て京都へ向かい、1551年1月に上洛した。堺では豪商の日比屋了慶に手厚くもてなされたとされ、その屋敷跡の付近が今のザビエル公園である。

上洛の目的 日本全土の布教許可——領主ごとの許可の、その上に

ザビエルが京都へ入ったのは、日本全土の布教許可を得るためだった。鹿児島と平戸で得た許可は、それぞれの領主の領内に限られていた。

動かなかった京都 なぜ果たせなかったか——将軍は北白川に逃れ、朝廷も衰えていた

1551年の京都では、幕府は事実上崩壊していた。13代将軍・足利義輝は少数の家臣を連れて郊外の北白川に逃れ、後奈良天皇ごならてんのう朝廷も衰えていた。都の大学(僧が学問を修める場)として期待していた比叡山の延暦寺をはじめ、京都の諸寺院も世俗化していた。ザビエルは失意の中、11日で京都を離れた。

山口で許される——贈物と推薦状を持って戻り、廃寺を与えられた

京都で本来の目的を果たせないと知ったザビエルは、目標を山口の大内氏にしぼった。二度の滞在を合わせても、ザビエル自身が山口にいたのは通算6か月余りである。

1551年4月 2度目の謁見——今度は大成功だった

ザビエルは1551年4月、珍奇な贈物と、インド総督(ポルトガル領インドの長官)とゴア司教(ゴアの教会の長)の推薦状を携えて、大内義隆に公式に謁見した。前年11月に不首尾に終わった相手への、2度目の謁見である。今度は大成功で、義隆は山口での布教を許可した。

廃寺 日本で最初の教会——実体も場所も分かっていない

義隆は1551年、布教の拠点として廃寺をザビエルに与えた。これが日本で最初の教会とされ、大道寺の名で伝わる。ただし、大道寺と呼ばれた教会なのか、大道寺の跡に建った教会なのか、義隆が与えた廃寺と同じものなのかは分かっていない。所在地も、今のサビエル記念公園の一帯とする説と、本圀寺(山口の寺)の周辺とする説がある。

府内、そして離日——21歳の宗麟に招かれ、2か月で日本を出た

1551年9月、ザビエルは山口を去って豊後の府内(今の大分県大分市)へ向かった。府内は大友氏の本拠である。

1551年 21歳の宗麟が招いた——関心と、南蛮貿易のために

大友宗麟は1551年、21歳の時に、キリスト教への関心と南蛮貿易の推進のため、山口にいたザビエルを府内に招き、布教を許した。宗麟はポルトガル王へ親書と使者を送り、翌1552年から多くのポルトガル人宣教師が府内を訪れるようになる。

2か月で離日 鹿児島の信者ベルナルドを伴って

ザビエルが府内にいたのは、わずか2か月だった。来日から2年後、鹿児島の人で信者になっていたベルナルドを伴って日本を離れ、まずインドへ向かった。

1552年 中国を目指して——没地は資料で割れる

インドへ向かったザビエルは、次に中国での布教を志したが、果たせないまま1552年に死去した。没した場所は、広東省の上川島とする資料と、中国の寧波で客死(旅先で死ぬこと)したと伝える資料がある。

ザビエルが去ったあと——府内の病院、山口の降誕祭、京都の南蛮寺、そして絵の中の姿

ザビエルが日本にいたのは2年ほどだった。布教の許可を取りつけた山口と府内にはザビエルが去った翌年の1552年から宣教師が入り、11日で去った京都にも、25年後にザビエルの上陸日にちなむ名の教会が建った。

府内 病院と聖歌隊——1557年、日本初の西洋式病院

府内では1553年にデウス堂(府内の教会)が建ち、1555年にアルメイダ(府内に病院を開いた人物)の育児院、1557年には日本で初めての西洋式病院と日本人の聖歌隊ができた。1562年には入院患者が100人を超えた。

山口 降誕祭——1552年、日本で最初のクリスマス

山口では1552年、宣教師たちによって降誕祭(クリスマス)が行われた。これが日本で最初にクリスマスが祝われた日とされる。ザビエル本人が日本を離れたあとのことである。

京都 25年後の南蛮寺——上陸日にちなむ名の教会

京都では、ザビエルの後を継いだガスパル・ビレラが1560年に足利義輝から布教を許され、1576年には織田信長の保護のもとで南蛮寺(京都のキリスト教会)が落成した。最初のミサの日はユリウス暦(当時のヨーロッパの暦)の8月15日で、キリスト教で聖母マリアの記念日(被昇天の日)にあたる。ザビエルが薩摩に着いた日でもあり、これを記念して教会の呼び名は「被昇天の聖母マリア」と決められた。

絵の中の姿 旧家の櫃から出た重要文化財と、ドイツの城にある宗麟

重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」は、1920年に大阪府茨木市千提寺の旧家の櫃(ふた付きの大きな箱)の中から見つかった。高山右近たかやま うこんの旧領で、キリスト教が禁じられていた江戸時代初期に描かれた洋風画である。ヨーロッパ側にも、17世紀初めに描かれた「豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル」がドイツの城にある。当時のヨーロッパの絵に姿を残した日本人は宗麟で、信長も秀吉も描かれていない。

フランシスコ・ザビエルの疑問に答える

「ザビエル」と「サビエル」、どちらが正しい?

どちらも同じ人物の表記で、公的な資料の間でも割れている。鹿児島県・大分県・堺市・京都市・文化庁の資料は「ザビエル」、山口県と山口市の資料は「サビエル」と書く。このページでは多数派の「ザビエル」で書き、山口の史跡の名前(サビエル記念公園など)だけは現地の表記のままにしている。

日本人をどう見ていた?

1549年11月5日付の手紙で、この国の人は礼節を重んじ、おおむね善良で悪心を抱かず、何よりも名誉を大切にすることが驚くべきことだ、と書き送っている。

山口から豊後へは、どの道を通った?

分かっていない。関門海峡を経て豊前の平野を通ったと考えられているが、詳しい道すじは明らかでなく、歴史家の記述にも食い違いがある。

現地に何が残っている?

鹿児島市清水町の祇園之洲公園に、1978年に建てられたザビエル上陸記念碑がある。山口市金古曽のサビエル記念公園には1926年建設の記念碑と、ビリヨン神父(大道寺の地をここと考え、公園の建設に尽力した神父)の像が立ち、山口市大殿大路の龍福寺参道には「サビエル布教の井戸」が再現されている。堺市堺区にザビエル公園、大分市の遊歩公園に聖フランシスコ・ザビエル像がある。

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参考にした資料