城・場所ページ / 戦国の主要都市 / 豊後国ぶんごのくに

府内ふない

大友宗麟が館・町・南蛮貿易を結んだ、戦国九州の国際都市。府内を「有名な城がある場所」としてではなく、地形、人の流れ、支配者の交代、町のつくり替えから読む。

府内は、何を動かした都市か

大分川河口西岸の平地にあり、別府湾の海運と豊後各地の道が集まる。大友館を中心に格子状の道路と多数の町が広がった。

豊後府内は大友氏の守護所・館を核に発展し、宗麟期には商人・職人・寺社・宣教師が集まった。ザビエルとの会見後、南蛮貿易とキリスト教文化が都市へ入り、中国・東南アジア産の品も流通した。山口の政治文化と堺・博多の国際商業を併せ持つような都市だった。

  • 現在地:大分県大分市
  • 戦国での役割:大友宗麟が館・町・南蛮貿易を結んだ、戦国九州の国際都市
  • 読みどころ:城・港・市場・寺社を、支配者だけでなく都市の働きとして見る。

支配者が替わると、都市の何が変わる?

耳川敗戦後に大友氏が弱体化し、島津氏の侵攻で府内も戦火を受ける。大友氏除国後には海辺へ府内城と近世城下が築かれ、政治中心の位置と形が変わった。府内城を築いたのは、早川氏に続いて府内に入った福原直高ふくはら なおたか(石田三成いしだ みつなりの妹婿)と、その後の竹中重利である。慶長2年(1597)、直高は豊臣秀吉とよとみ ひでよしの命で府内を見て廻り、「荷落におろし」と呼ばれていた河畔を築城地に定めた。慶長4年(1599)までに本丸・二之丸・三之丸を造り、慶長7年(1602)には竹中重利のもとで四層櫓の天守が築かれている。中世国際都市と近世城下町の二層を分けて読む必要がある。

大友館と町

城郭天守ではなく館を中心に、道路と四十余りの町が展開した。

南蛮貿易

海外の人・品・宗教が入り、九州有数の国際都市になった。

二つの府内

大友氏の中世都市と、後の府内城下は中心位置と構造が異なる。

城だけを見ないための三つの視点

人が集まる理由

武将の居城だけでは町は続かない。港、川、街道、寺社、市場のどれが人と物を呼んだのかを確かめる。

支配の届き方

城下・寺内町・港町では、家臣、町衆、寺社、商人が違う役割を持つ。誰が何を管理したのかを見る。

転機の後

合戦や政変で領主が替わった後、道・川・市場・城下がどう組み替えられたかを追うと、都市の変化が見える。

戦国期の府内 年表

1550年
宗麟が家督継承

大友氏の領国と府内の繁栄が進む。

1551年
ザビエルと会見

布教と海外交流が本格化する。

1578年
耳川の戦い

大友氏敗北後、領国が不安定になる。

1590年代
大友氏除国と府内城

中世都市から近世城下へ再編される。

1597年
府内城の築城はじまる

秀吉の命で福原直高が「荷落」の河畔を築城地に定める。

1602年
竹中重利が仕上げる

直高が造った本丸・二之丸・三之丸を受け継ぎ、天守が築かれる。

「府内」と「豊後国」は同じではない

府内は人・物・権力が集まる都市、豊後国はより広い地域を表す国である。都市だけでは周辺の国衆くにしゅうや生産地が見えず、国だけでは城下・港・市場の具体的な働きが見えにくい。この二つを行き来すると、戦国の地域が立体的に読める。

参考にした資料