勢力ページ / 鎌倉以来700年、薩摩の家

島津氏しまづし

島津氏(島津家)は、薩摩国(鹿児島県)を本拠とし、鎌倉時代から明治維新までおよそ700年続いた武家の一族です。源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護職を得たのが始まりで、室町時代には一族が分かれて争いましたが、島津貴久しまづ たかひさが三州をまとめ、子の義久・義弘ら四兄弟が九州のほぼ全域を制しました。豊臣秀吉とよとみ ひでよしに降伏して薩摩・大隅に戻され、関ヶ原では西軍についたものの本領を保ち、薩摩藩として江戸時代を通じて続きます。幕末には西郷隆盛・大久保利通を出し、明治維新の中心となりました。

鎌倉以来の薩摩守護 貴久の三州統一・四兄弟の九州制覇 1600年 島津の退き口 薩摩藩として明治維新へ
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要点

  • 鎌倉幕府の御家人から始まった。初代・島津忠久が源頼朝から薩摩・大隅・日向の守護職と島津荘の地頭職を得た。以後、南九州の守護を世襲する。
  • 戦国初期は一族が分かれて争っていた。薩州家・相州家・伊作家などの分家が宗家と争い、島津氏の実際の勢力は薩摩の半分ほどだった。
  • 貴久が三州統一の土台を作った。伊作家から宗家を継いだ貴久は、家中をまとめて薩摩・大隅・日向の統一に着手した。鉄砲伝来(1543年)もこの時期。
  • 四兄弟が九州をほぼ制した。義久・義弘・歳久・家久の兄弟は、1578年の耳川で大友氏、1584年の沖田畷で龍造寺氏を破り、1586年には豊後へ攻め込んだ。
  • 降伏しても、減封されても、家は続いた。秀吉に降伏して薩摩・大隅へ戻され、関ヶ原で西軍についたが本領を保った。薩摩藩は77万石の大藩として明治まで続く。
家のはじまり

島津氏は、どうやって薩摩の家になったのか

  • 頼朝の御家人・島津忠久が祖。忠久は源頼朝に仕え、日本最大の荘園だった島津荘の地頭、さらに薩摩・大隅・日向の守護職を得た。名字は荘園の名に由来する。
  • 鎌倉末期から南九州に定着した。当初は鎌倉にいたが、元寇を機に一族が薩摩へ下り、以後は在地の領主として根を張った。
  • 室町時代は一族の争いが続いた。守護の島津宗家の力は弱く、薩州家・相州家・伊作家などの分家や国衆が割拠した。戦国初期の島津氏は、薩摩の半分ほどしか動かせなかった。
  • 伊作家の貴久が宗家を継いだ。1520年代、分家の伊作家から島津貴久が宗家の養子となり、家中の反発を抑えて当主の地位を固めた。ここから戦国大名としての島津氏が始まる。

島津氏は守護の家がそのまま戦国大名になった型ですが、大友氏と同じく、一族の分裂を抑えるところから始まっています。薩摩の地理は薩摩国で、本拠の町は鹿児島で整理しています。

九州制覇

島津四兄弟は、どうやって九州を制したのか

  1. 011550〜70年代:三州統一

    貴久は子の義久・義弘を率いて薩摩の国衆を従え、大隅の肝付氏、日向の伊東氏と戦いました。1577年に伊東氏を日向から追い、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げます。

  2. 021578年:耳川の戦い

    日向へ進出した大友氏の大軍を、義久は耳川で大破しました。大友氏の重臣が多数戦死し、九州北部の勢力図が動きます。

  3. 031584年:沖田畷の戦い

    島原で龍造寺隆信の大軍を、家久が少数の兵で破り、隆信を討ち取りました。島津氏は肥前・肥後へ勢力を広げます。

  4. 041586年:豊後侵攻

    九州統一を目前にした島津軍は大友氏の本国・豊後へ攻め込みました。しかし大友宗麟の要請を受けた豊臣秀吉が大軍を九州へ送り、情勢は一変します。

島津軍の強さは、退くと見せて敵を誘い込み、伏兵で包囲する「釣り野伏せ」などの戦術と、四兄弟の結束にあったとされます。義久・義弘については島津義久しまづ よしひさ島津義弘しまづ よしひろで、耳川は耳川の戦いで整理しています。

秀吉・家康との関係

島津氏はなぜ、負けても家を保てたのか

  • 1587年、秀吉に降伏した。20万を超える豊臣軍を前に義久は降伏し、薩摩・大隅と日向の一部を安堵された。九州の大半を失ったが、本国は保った。
  • 朝鮮出兵で武名を上げた。義弘は朝鮮で少数の兵で明の大軍を退け、「鬼島津」と恐れられた。豊臣政権のもとで島津氏の地位は保たれた。
  • 関ヶ原の「退き口」。1600年、義弘は西軍に属したが、わずかな兵で戦場に取り残された。敗色が決まると、徳川本陣の正面を突破して退却する「島津の退き口」を敢行し、薩摩へ帰り着いた。
  • 2年の交渉で本領安堵。義久は家康との和睦交渉を粘り強く続け、徹底抗戦の構えも見せた。1602年、家康は島津氏の本領をそのまま認めた。西軍の大名で領地を減らされなかったのは島津氏だけである。
  • 薩摩藩から明治維新へ。77万石の薩摩藩は琉球を通じた貿易で財政を支え、幕末には西郷隆盛・大久保利通らを出して倒幕の中心となった。

関ヶ原での島津軍の動きは関ヶ原の戦いで読めます。

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島津氏をめぐる人物

島津氏についてのよくある疑問

関ヶ原で西軍だったのに、なぜ領地を減らされなかったのか?

島津氏が西軍に加わった経緯があいまいだったこと(義弘は当初東軍に加わろうとして拒まれたとされる)、家康が九州の遠隔地へ大軍を送る負担を避けたかったこと、そして義久が2年にわたって交渉を引き延ばしながら徹底抗戦の構えを崩さなかったことが重なったと考えられています。島津氏の側から見れば、戦わずに本領を守り切った外交の勝利でした。

「島津四兄弟」とは誰か?

島津貴久の四人の子、義久・義弘・歳久・家久のことです。長兄の義久が当主として全体を指揮し、義弘が軍の中心、歳久が政務と補佐、家久が戦術面で活躍したとされます。耳川・沖田畷・戸次川など、島津氏の主要な勝利はこの四人の分担で成し遂げられました。ただし秀吉への降伏後、歳久は秀吉の怒りを買って自害させられ、家久も急死しており、四兄弟がそろって活躍した期間は長くありません。

島津氏はなぜこれほど長く続いたのか?

鎌倉以来の守護という家の古さ、本国が九州の南端で中央から遠かったこと、一族と家臣団が当主を中心にまとまる仕組みを戦国期に作り直したこと、そして秀吉・家康という二人の天下人に対して「降伏はするが本国は譲らない」という姿勢を貫いたことが挙げられます。大友氏や龍造寺氏が家を失うなかで、島津氏だけが九州の戦国大名として明治まで残りました。

鉄砲伝来と島津氏は関係があるのか?

1543年に鉄砲が伝わった種子島は、島津氏に従う種子島氏の領地でした。島津氏は早くから鉄砲を取り入れ、戦術に組み込んだとされます。また島津氏はザビエルの鹿児島上陸(1549年)も受け入れており、九州の南端にあって海外との接点が早かったことが、島津氏の軍事と経済を支えました。

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参考にした資料