要点
- 出発点は少弐氏の家臣。肥前の国人として鎌倉時代から続き、室町期は肥前守護・少弐氏に仕えた。少弐氏と大内氏の争いのなかで立場を変えながら生き延びた。
- 一族虐殺から再興した。1545年、主家の少弐氏に疑われて一族の多くが殺された。生き延びた龍造寺家兼(剛忠)が90歳を超えて兵を挙げ、家を立て直した。
- 隆信が一代で大勢力に。家兼のひ孫・隆信は少弐氏を滅ぼし、大友氏と争って肥前を統一。耳川の戦いで大友氏が衰えると、筑後・肥後・豊前へ広がった。
- 沖田畷で隆信が敗死した。1584年、島津・有馬連合軍に沖田畷で敗れ、隆信は討ち死に。龍造寺氏の勢いは一気に失われた。
- 実権は鍋島直茂へ。隆信の義弟で重臣の鍋島直茂が家中をまとめ、秀吉・家康もこれを認めた。龍造寺宗家は断絶し、佐賀藩は鍋島氏の藩となった。
龍造寺氏は、どこから来た家なのか
- 肥前の国人として鎌倉から続いた。佐賀郡の龍造寺村を名字の地とし、鎌倉時代には地頭を務めた。南北朝・室町を通じて肥前の在地領主の一つだった。
- 少弐氏と大内氏の間で揺れた。肥前守護の少弐氏は北九州で大内氏と争い続け、龍造寺氏は少弐氏の家臣として戦いながら、大内氏とも通じた。
- 1545年の一族虐殺。大内氏に通じたと疑われ、少弐氏の家臣・馬場頼周の策略で一族の多くが殺された。家は滅びかけた。
- 家兼の再興。筑後に逃れていた龍造寺家兼は、90歳を超える高齢で兵を挙げて馬場氏を討ち、佐賀に戻った。家兼は翌年に死去するが、ひ孫の隆信を後継に指名した。
龍造寺氏は国衆から身を起こした型の戦国大名で、主家の弾圧で一族を失いながら再興した点に特徴があります。佐賀の町は佐賀で、肥前の地理は肥前国で整理しています。
隆信は、どうやって「五州二島」を手にしたのか
- 011548年:還俗して家督へ
隆信は幼くして出家していましたが、一族虐殺のあと還俗し、家兼の指名で龍造寺宗家を継ぎました。一族の反発を抑えるのに時間を要しています。
- 021559年:少弐氏を滅ぼす
主家だった少弐氏を攻め滅ぼし、肥前東部の主となりました。家臣が主家を倒す下剋上です。
- 031570年:今山の戦い
肥前に攻め込んだ大友氏の大軍を、鍋島直茂の夜襲で撃退しました。龍造寺氏が大友氏に対抗できる勢力であることを示した戦いです。
- 041578年以降:九州北部へ拡大
耳川の戦いで大友氏が衰えると、隆信は肥前を統一し、筑後・肥後・豊前・壱岐・対馬方面に勢力を広げました。「五州二島の太守」と称されます。
隆信の拡大は、婚姻や養子よりも武力と恐怖による服従が目立ち、「肥前の熊」と呼ばれました。詳しくは龍造寺隆信で整理しています。
龍造寺の家は、なぜ鍋島の家になったのか
- 011584年:沖田畷の戦い
有馬氏の離反を討つため島原へ出陣した隆信は、島津・有馬連合軍に沖田畷で敗れ、討ち取られました。重臣の多くも戦死し、龍造寺氏の勢いは失われます。
- 02直茂が家中をまとめる
隆信の子・龍造寺政家は病弱で、家中は隆信の義弟にあたる鍋島直茂を頼りました。直茂は島津氏の圧力をしのぎ、1587年の秀吉の九州平定では龍造寺氏の所領を守ります。
- 03秀吉・家康が直茂を認める
秀吉は政家を隠居させ、直茂に龍造寺領の実務を委ねました。関ヶ原では直茂が東軍に通じ、徳川家康も鍋島氏の支配を追認します。
- 041607年:御家交代
政家の子・龍造寺高房は実権を持たない立場に不満を募らせ、江戸で自害を図りました。高房と政家が相次いで死去すると、幕府は鍋島勝茂(直茂の子)を佐賀藩主と認め、龍造寺宗家は断絶しました。
龍造寺の一族は鍋島氏の家臣として佐賀藩に残り、多久・諫早・武雄・須古の龍造寺四家は藩の重臣として明治まで続きました。直茂については鍋島直茂で、沖田畷の戦いは沖田畷の戦いで読めます。
龍造寺氏をめぐる人物
龍造寺氏についてのよくある疑問
鍋島直茂は龍造寺家を乗っ取ったのか?
「鍋島の乗っ取り」として語られることが多いですが、経過を見ると単純ではありません。隆信の死後、龍造寺家中が直茂を頼ったこと、秀吉と家康がいずれも直茂の支配を認めたこと、龍造寺一族の多くが鍋島氏の家臣として残ったことからは、家中の合意のもとで実権が移ったという面が見えます。一方で高房の自害未遂のように、龍造寺宗家の側に強い不満があったことも確かです。佐賀では「御家交代」という言葉でこの移行を呼んでいます。
「五州二島の太守」とは何か?
隆信の最盛期の勢力を表す言葉で、肥前・肥後・筑前・筑後・豊前の五か国と、壱岐・対馬の二島に影響力が及んだことを指します。ただし実際にこれらすべてを直接支配していたわけではなく、国衆を従属させた範囲を含む表現です。大友氏の衰退と島津氏の北上の間の、短い期間の出来事でした。
隆信はなぜ沖田畷で負けたのか?
大軍を率いていた隆信が、島津・有馬の少数の軍に敗れた理由として、湿地に挟まれた細い道(畷)に大軍が詰まって身動きが取れなくなったこと、島津氏の伏兵戦術にかかったことが挙げられます。隆信自身が輿に乗って前線近くにいたため討ち取られたとされます。家臣や国衆に対する隆信の厳しい統治が、離反を招いていたことも背景にあります。
「化け猫騒動」は龍造寺と関係があるのか?
鍋島藩の化け猫騒動は、鍋島氏に家を奪われた龍造寺の怨念が猫の姿で現れるという江戸時代の怪談で、歌舞伎や講談で広まりました。史実ではなく後世の創作ですが、御家交代に対して「龍造寺が乗っ取られた」という見方が世間にあったことを映しています。佐賀藩はこの題材の上演を差し止めたと伝わります。