鍋島勝茂を理解する要点
鍋島勝茂は1580年、鍋島直茂の長男として生まれました。父が龍造寺領国の実権を担う一方、家名と領地の正統な当主は龍造寺政家・高房です。勝茂はこの二重構造の中で育ち、若くして父と朝鮮半島へ渡りました。
1600年の関ヶ原では、高房とともに西軍側へ加わり、伏見城・安濃津城などを攻めました。しかし西軍が敗れると、勝茂は仲介者を頼って家康に謝罪し、その償いとして柳川の立花宗茂を攻めます。この謝罪と柳川攻めによって、鍋島・龍造寺領は削減を免れました。
1607年に高房と政家が相次いで死去すると、龍造寺の家督は勝茂に継承され、勝茂が佐賀藩初代藩主となります。佐賀城を完成させ、龍造寺一門を重用しながら支藩と家臣団を編成。1637年の島原の乱では佐賀藩勢が原城本丸へ一番乗りしましたが、軍令違反として勝茂は閉門処分を受けました。1642年からは長崎警備を命じられ、佐賀藩の重要な役目として定着させます。
- 前半は「直茂の嫡男として朝鮮出兵と豊臣政権の軍役を経験した若武者」
- 関ヶ原では「西軍側へ動き、敗戦後に柳川攻めで挽回した危機の当事者」
- 1607年に「龍造寺高房の跡を承ける形」で佐賀藩初代藩主となった
- 佐賀城・城下町、支藩、家臣団を整え、鍋島氏の支配を制度に変えた
- 島原の乱と長崎警備により、九州西辺を守る幕府大名として位置づけられた
関係人物と事件
| 鍋島直茂 | 勝茂の父で佐賀藩藩祖。今山から龍造寺領国を支え、関ヶ原後の交渉と勝茂への権力移行を主導しました。 |
|---|---|
| 龍造寺隆信 | 父・直茂の主君。勝茂が生まれた時期の肥前最大の権力者で、その領国と家臣団が佐賀藩の母体になりました。 |
| 龍造寺政家 | 隆信の嫡男。名目上の領国当主として残り、1607年に死去するまで龍造寺家の正統性を担いました。 |
| 龍造寺高房 | 政家の嫡男。勝茂と関ヶ原で西軍側へ参加しましたが、国政の実権を持てず、1607年に死去しました。 |
| 龍造寺伯庵 | 高房の遺児とされる人物。勝茂の藩政が定着した後、幕府へ龍造寺宗家の再興を繰り返し訴えました。 |
| 多久安順 | 直茂の娘婿で龍造寺一門。佐賀藩の家老格として勝茂を支え、伯庵の再興要求を退けました。 |
| 高源院 | 勝茂の継室・菊姫。岡部長盛の娘で徳川家康の養女となり、鍋島家と徳川政権を婚姻で結びました。 |
| 鍋島元茂 | 勝茂の長男。小城鍋島家を立て、佐賀藩を支える御三家の一つを担いました。 |
| 鍋島忠直 | 勝茂と高源院の嫡男。次代の藩主と期待されましたが父より先に死去し、その子・光茂が後継になります。 |
| 鍋島光茂 | 忠直の子で勝茂の孫。1657年に祖父の家督を継ぎ、佐賀藩二代藩主となりました。 |
| 鍋島直澄 | 勝茂の子で蓮池鍋島家の祖。小城・鹿島とともに佐賀藩御三家を構成します。 |
| 豊臣秀吉 | 父子を朝鮮出兵へ動員した天下人。勝茂の最初の正室は、豊臣政権下で伊予宇和島城主だった戸田勝隆の娘でした。 |
| 加藤清正 | 文禄の役の日本軍二番隊主将。直茂・勝茂父子と佐賀勢はその指揮系統に入りました。 |
| 石田三成 | 関ヶ原の西軍形成を主導した奉行。勝茂と高房は西軍側として伏見城攻めなどに参加しました。 |
| 鳥居元忠 | 徳川方として伏見城を守った城将。勝茂は西軍の一員として元忠の籠城軍と戦いました。 |
| 立花宗茂 | 関ヶ原後も柳川に残った西軍方大名。勝茂は父とともに討伐へ進み、領国保全につなげました。 |
| 徳川家康 | 勝茂の謝罪を受け入れ、柳川の立花宗茂を攻めて西軍参加の罪を償わせた天下人。高源院の養父でもあります。 |
| 徳川家光 | 江戸幕府三代将軍。その治世に、幕府は島原の乱後の勝茂を閉門とし、1642年から佐賀藩へ長崎警備を命じました。 |
| 松倉勝家 | 島原藩主。過酷な徴税と統治の混乱が島原・天草一揆の背景となり、乱後に改易・処刑されました。 |
| 板倉重昌 | 最初の幕府上使。勝茂を含む九州諸大名の軍を指揮しましたが、原城への総攻撃で戦死しました。 |
| 松平信綱 | 重昌の後任となった老中。原城包囲を進め、勝茂の佐賀勢による一番乗りを軍令違反として扱いました。 |
| 島原の乱 | 勝茂が佐賀勢を率いて原城へ出陣し、一番乗りの戦功と軍令違反による処分の両方を経験した戦役です。 |
| 天草四郎 | 原城籠城側の若い総大将。勝茂の佐賀勢が攻め込んだ城で、一揆勢の象徴となりました。 |
| 関ヶ原の戦い | 勝茂が西軍側へ動きながら、本戦後の転換と交渉で領国を保った最大の政治危機です。 |
勝茂を五段階で見る
1. 直茂の後継
龍造寺家の名目と鍋島家の実権が並ぶ領国で、軍役を担う次世代として育ちました。
2. 関ヶ原の危機
西軍側に加わった後、柳川攻めと交渉によって領国没収を避けました。
3. 初代佐賀藩主
高房の跡を承け、龍造寺領国を鍋島氏の藩へ制度的に移しました。
4. 藩政の骨格づくり
佐賀城、城下町、家臣団、御三家を整え、長期支配の形を作りました。
5. 幕府の西辺防衛
島原の乱と長崎警備を通じ、幕府から九州西辺の軍役を担う大名とされました。
鍋島勝茂の生涯を年表で追う
直茂の長男として生まれる
龍造寺隆信が勢力を広げていた時期、国政を支える鍋島家の後継として生まれました。
文禄の役に加わる
父・直茂とともに佐賀勢の朝鮮出兵へ加わり、豊臣政権の大規模軍役を経験しました。
慶長の役で再び渡海
朝鮮半島での戦闘と長期在陣を経験し、鍋島家臣団の次代の指揮者として認識されます。
伏見城・安濃津城攻めに参加
龍造寺高房とともに西軍側へ加わり、徳川方の城を攻撃しました。
柳川の立花宗茂を攻める
謝罪の償いとして父・直茂と筑後へ入り、城島に陣して江上で立花勢を破りました。
佐賀藩初代藩主となる
高房・政家の死後、龍造寺の家督が勝茂に継承され、鍋島氏による佐賀藩が名実ともに成立しました。
佐賀城総普請を始める
父・直茂とともに近世城郭と城下町の整備を本格化しました。
佐賀城本丸へ入る
総普請が完成し、勝茂が本丸に入って佐賀藩政の中心が定まりました。
小城鍋島家を立てる
長男・元茂が祖父・直茂の隠居領だった小城を継ぎ、佐賀本藩を支える分家の最初となりました。
本格的な藩士名簿を整える
寛永五年惣着到が作られ、家臣を知行高の順に書き上げた最初の本格的な藩士名簿となりました。
忠直が父より先に死去
高源院との子で宗家の後継とされた忠直が亡くなり、その子・光茂を次の佐賀藩主へ育てることになります。
島原・天草一揆へ出陣
幕府の命で佐賀藩勢を率い、有馬の原城包囲に加わりました。
原城本丸へ一番乗り
佐賀藩勢が総攻撃命令に先立って突入し、戦功と同時に軍令違反を問われました。
長崎警備を命じられる
福岡(筑前)藩と隔年交代で長崎港を守る役目が始まり、幕末まで佐賀藩の重い軍役となりました。
78歳で死去
約50年に及ぶ藩主在任を終え、孫の光茂が佐賀藩二代藩主となりました。
勝茂が受け継いだのは「鍋島領」ではなかった
勝茂が若いころ、肥前佐賀の公式な領主家は龍造寺氏です。龍造寺政家から高房へ家督が移り、直茂はその後見と国政を担当していました。
つまり勝茂は、父が大名として独立した領地をそのまま相続したわけではありません。龍造寺家の権威、鍋島家の実務、豊臣政権の認定が重なる複雑な領国を継ぐ立場でした。
この前提があるため、1607年の藩主就任は単なる親子相続ではなく、「龍造寺高房の跡を承ける」という形式を必要としました。
朝鮮出兵――少年期に経験した巨大軍役
1592年、豊臣秀吉による朝鮮侵略が始まると、直茂は約一万二千の佐賀勢を率いて渡海しました。勝茂も父とともに戦役へ加わり、加藤清正を主将とする二番隊の行動を経験します。
1597年の慶長の役では再び朝鮮半島で戦闘が行われ、蔚山城の戦いなど激しい攻防が続きました。若い勝茂にとって、領国の範囲を超える兵站・築城・集団指揮を学ぶ場になりました。
一方、この戦争は朝鮮半島へ甚大な被害を与え、多数の人々が捕らえられて日本へ連行された侵略戦争です。勝茂の軍事経験と鍋島家臣団の結束だけを成果として切り離すことはできません。
関ヶ原――なぜ勝茂は西軍へ入ったのか
1600年、勝茂と龍造寺高房は畿内におり、西軍の軍事行動へ加わりました。伏見城を守る鳥居元忠と戦い、続いて伊勢の安濃津城攻めにも参加します。
豊臣政権下で所領を認められた大名にとって、西軍参加は突飛な判断ではありませんでした。ただし、この時期の直茂・勝茂父子の動きは確実な史料で追いにくく、江戸時代に編まれた家譜の記述には曲筆も含まれるため、そのまま受け取れないと『佐賀市史』は注意しています。
勝茂は伊勢の野代に陣を置いて長島城に備えており、関ヶ原本戦には加わっていません。西軍敗北の報を受けて大坂へ退き、ここから課題は勝敗ではなく、西軍参加の責任をどう処理して領国を守るかへ変わりました。
勝茂・高房
畿内で西軍の城攻めに参加し、軍事行動として徳川方と敵対しました。
直茂
国元の肥前にいました。関ヶ原前後に父子がどう連絡を取り合ったかは、確実な史料では十分に追えません。
危機
西軍方大名として改易されれば、龍造寺・鍋島双方が肥前佐賀を失う状況でした。
挽回策
井伊直政・本多正信・閑室元佶(円光寺元佶)を頼って家康に謝罪し、柳川攻めで罪を償いました。
柳川合戦――立花宗茂との「関ヶ原」
西軍敗北後、立花宗茂は柳川へ帰り、領国で軍勢を保っていました。家康は勝茂の謝罪を受け入れる代わりに、宗茂を攻めて罪を償うよう命じます。
1600年10月、直茂・勝茂父子は筑後の久留米城を収めて城島に陣し、江上で立花方の小野鎮幸らの軍勢を破りました。これは美濃の本戦が終わった後も各地で続いた、広い意味での関ヶ原合戦の一つです。
宗茂は黒田如水・加藤清正の説得を受けて柳川城を明け渡しました。鍋島氏が柳川領を得たわけではありませんが、勝茂は徳川政権への軍事的な協力を示し、肥前佐賀の存続へつなげます。
龍造寺高房の死――佐賀藩成立の痛み
龍造寺高房は宗家当主でありながら、実際の国政は直茂・勝茂父子が担っていました。関ヶ原後も高房の家名と石高は残りましたが、政治的な主導権を取り戻すことはできませんでした。
1607年、高房は江戸で死去し、その後まもなく父・政家も亡くなります。これにより、龍造寺宗家当主を中心とした従来の領国体制は決定的に終わりました。
後世にはこの交代をめぐる怨念や怪異を描く「鍋島騒動」「化け猫騒動」の物語も作られます。しかしそれらは芝居や講談で発展した後世の創作で、権力移行そのものの史料とは分けて読む必要があります。
1607年――なぜ勝茂が初代藩主なのか
直茂は領国の実権を持ち、佐賀藩の基礎を築きました。そのため「藩祖」と呼ばれます。一方、1607年に高房・政家が相次いで没した後、龍造寺の家督を継承し、江戸幕府下の佐賀藩主となったのは勝茂です。この継承は龍造寺一族の申し出によるものと伝えられています。
この違いは名誉称号だけではありません。直茂の時代には龍造寺家当主と鍋島家の国政担当が並んでいましたが、勝茂の代に家名・軍役・領国統治の中心が鍋島氏へ一本化されました。
直茂から勝茂への親子継承と、龍造寺高房から勝茂への領主権継承が重なったのが1607年です。
佐賀城完成――藩主の居場所を形にする
佐賀城は龍造寺氏の村中城を基礎に、直茂・勝茂父子が拡張しました。1608年に総普請が始まり、1611年に完成すると勝茂が本丸へ入ります。
低い平野に築かれた佐賀城は、幅広い堀と水路を防御に利用しました。城下町では武家地、町人地、寺社、長崎街道を配置し、領国の政治・経済・交通を一か所へ集めます。
初代藩主が本丸へ入ることは、建物の完成以上の意味を持ちます。龍造寺以来の家臣団が、鍋島藩主を中心とする新しい政治空間へ再配置されたことを示しました。
本丸
藩主の居所と政務の中心。勝茂が入ることで鍋島藩政の中枢となりました。
堀と水路
防御だけでなく、低平地の排水と物資輸送を支える都市基盤でした。
城下町
家臣・商人・職人・寺社を集め、藩の命令と経済を動かしやすくしました。
長崎街道
小倉と長崎を結ぶ交通路が城下を通り、人・物資・情報の流れを佐賀へ引き込みました。
龍造寺一門を追い出さず、佐賀藩へ組み込む
鍋島氏が藩主になっても、旧龍造寺一門と家臣団を一斉に排除したわけではありません。多久家など龍造寺一門を重用し、知行と役目を与えて藩の有力家として残しました。
旧主家の一族を残すことは反乱の種にもなり得ますが、地域の人脈・所領支配・軍事力を失わずに済みます。勝茂は家名の序列を組み替えながら、既存の領国組織を利用しました。
1628年の「寛永五年惣着到」は、家臣を知行高の順に書き上げた最初の本格的な佐賀藩士名簿です。家臣の知行と序列を藩が一冊の帳面で把握する仕組みが、戦国期の個人的主従を藩の組織へ変えていきました。
小城・蓮池・鹿島――御三家をどう見るか
勝茂は息子たちを分家させ、小城・蓮池・鹿島の三家を立てました。これらは佐賀藩の御三家として、本藩を支える一方、それぞれの領地と家臣団を持ちます。
分家は単なる息子への財産分けではありません。広い藩領の各地域に鍋島一族を置き、本家に近い軍事・行政拠点を作る政策です。
ただし領地と財政を分けるため、本藩の統制と各家の自立性が緊張する面もありました。御三家の成立は安定装置であると同時に、佐賀藩の複雑な権力構造の始まりでもあります。
小城鍋島家
長男・元茂を祖とし、佐賀城西方の小城を中心に領地を持ちました。
蓮池鍋島家
直澄を祖とし、佐賀城東方の蓮池を中心に本藩を支えました。
鹿島鍋島家
藤津郡鹿島を基盤とし、有明海西岸と長崎方面に近い地域を担いました。
嫡男・忠直の死と、孫・光茂への継承
勝茂の長男・元茂は小城分家を立てました。宗家の後継には、家康の養女である継室・高源院との間に生まれた忠直が定められます。
元茂は長男でしたが生母の家柄が低く、高源院に男子が生まれたことで本家を継ぐのは難しくなった、と『佐賀市史』は説明しています。後継の決め方にも、徳川家との婚姻が重く働いていました。
しかし忠直は1635年に父より先に死去します。勝茂は忠直の子・光茂を後継に定め、1657年に光茂が二代藩主となりました。
島原の乱――一番乗りが処分になった理由
1637年、島原・天草で大規模な一揆が起こり、幕府軍は原城を包囲しました。佐賀藩は島原半島に近い大藩として多数の兵を動員し、勝茂も出陣します。
1638年の総攻撃直前、佐賀藩勢は幕府の命令より先に原城へ突入し、本丸一番乗りの戦功を挙げました。しかし諸藩を統制する幕府軍では、抜け駆けは命令系統を壊す行為です。
1638年6月、勝茂は軍令違反を問われて出仕を止められ、同年12月末に赦されるまで閉門(屏居)となりました。『佐賀市史』は、この一番乗りが若い指揮官の血気だけでなく、勝茂が予定していた行動だった可能性も指摘しています。戦国の戦場では称賛される先陣争いが、幕府の統一軍では軍令違反になる――この違いに、戦国武将から幕府大名へ変わった時代が表れています。
戦国的評価
敵城への一番乗りは武名を高め、家臣団の功績を示す大きな戦果でした。
幕府的評価
攻撃開始を統一できなければ全軍が混乱するため、命令違反は処分対象です。
佐賀藩の事情
肥前の大藩として兵力を示す必要があり、前線で大きな役割を期待されました。
勝茂の立場
戦功を得ても統率責任を負うのが、江戸時代の藩主でした。
長崎警備――佐賀藩に残った最も重い軍役
1642年、幕府は佐賀藩へ長崎警備を命じました。前年から警備に当たっていた福岡(筑前)藩と隔年交代で長崎港を守り、港口の西泊・戸町に置かれた番所で外国船の来航を監視する役目です。
長崎は海外貿易と外交の窓口であり、警備の失敗は幕府の対外政策を揺らします。佐賀藩には兵員、船、武器、台場、情報連絡を維持する大きな負担がかかりました。
一方、長崎から海外情報や技術へ接する機会も増えます。勝茂の時代に始まった警備は幕末まで続き、のちの佐賀藩が海防・砲術・科学技術へ力を入れる遠い前提になります。
二度の婚姻が示す、豊臣から徳川への移行
勝茂の最初の正室は、豊臣政権下で伊予宇和島城主だった戸田勝隆の娘です。鍋島家が豊臣政権の大名どうしの結びつきへ入る婚姻でした。
継室の菊姫・高源院は岡部長盛の娘で、徳川家康の養女となって1605年ごろ勝茂へ嫁ぎます。関ヶ原後の鍋島家を徳川政権へ結び直す意味を持ちました。
二人の妻を通して見ると、勝茂の生涯が豊臣政権下の武将から徳川幕府の藩主へ移る時代そのものだったと分かります。
勝茂の役割は、直茂とどう違う?
直茂
敗戦後の領国を再建し、龍造寺家の名目を残しながら実権を鍋島氏へ集めました。
勝茂
集められた実権を、城・家臣団・支藩・幕府軍役を持つ佐賀藩の制度に定着させました。
直茂の強み
今山、沖田畷後、関ヶ原後のような危機で、残すものを選ぶ判断と交渉です。
勝茂の強み
長期政権の中で旧勢力と新しい一族を配置し、次世代まで続く組織を作ることです。
勝茂を読むときの三つの注意
「関ヶ原は東軍」にしない
勝茂は当初西軍側で伏見城・安濃津城を攻め、戦後に立場を転換しました。
「父の地位を相続」にしない
1607年は直茂の家督だけでなく、龍造寺高房の領主権を承ける政治過程でした。
「島原一番乗り=大手柄」で終えない
戦功である一方、幕府軍の命令を破ったため、藩主として閉門処分を受けています。
勝茂をたどる場所
佐賀城跡
1611年に総普請が完成し、勝茂が本丸へ入った佐賀藩政の中心です。
佐賀城下町
長崎街道、街路、水路、町割に直茂・勝茂期の都市整備が残ります。
高伝寺
龍造寺・鍋島両家の墓所が並び、家名の交代と継承を同じ場所で見られます。
城島・江上
関ヶ原後、勝茂・直茂父子が陣を置き、立花宗茂の軍勢と戦った柳川合戦の地域です。
原城跡
島原の乱で佐賀藩勢が本丸へ突入し、勝茂が軍令違反を問われた場所です。
長崎港
1642年から佐賀藩が福岡藩と隔年交代で警備し、幕末まで重い責任を負った港です。
勝茂を入れると、何がつながる?
戦国から藩へ
龍造寺隆信の国衆連合が、城・家臣名簿・支藩を備えた佐賀藩へ変わる過程が見えます。
関ヶ原の地方戦
美濃本戦だけでなく、伏見・安濃津・柳川まで続く大名の生存競争を追えます。
武功から軍令へ
島原の乱の一番乗りを通して、個人の武名より幕府の命令が優先される変化が分かります。
幕末佐賀への前提
長崎警備が、後世の海防・砲術・海外情報への関心につながる長い流れを作ります。
ここだけ覚える
- 鍋島勝茂は1580年、鍋島直茂の長男として生まれ、朝鮮出兵に加わった。
- 関ヶ原では当初西軍側に参加し、敗戦後の柳川攻めと交渉で領国を守った。
- 1607年、龍造寺高房の跡を承ける形で佐賀藩初代藩主となった。
- 佐賀城・城下町、旧龍造寺家臣団、御三家を整え、藩政の骨格を作った。
- 島原の乱では軍令違反で処分され、1642年から長崎警備を担った。
10問クイズ
Q1. 鍋島勝茂の父は?
A. 鍋島直茂です。
Q2. 勝茂は関ヶ原で最初どちらの陣営に加わった?
A. 西軍です。
Q3. 関ヶ原後、勝茂父子が攻めた柳川の大名は?
A. 立花宗茂です。
Q4. 勝茂が跡を承けた龍造寺宗家当主は?
A. 龍造寺高房です。
Q5. 勝茂が佐賀藩初代藩主となった年は?
A. 1607年です。
Q6. 1611年に完成し、勝茂が本丸へ入った城は?
A. 佐賀城です。
Q7. 勝茂の嫡男・忠直の子で二代藩主となった人物は?
A. 鍋島光茂です。
Q8. 1637~38年に勝茂が出陣した一揆は?
A. 島原・天草一揆、一般に島原の乱です。
Q9. 原城一番乗り後、勝茂が処分された理由は?
A. 幕府軍の攻撃命令に先立つ軍令違反です。
Q10. 1642年から佐賀藩に命じられた重要軍役は?
A. 長崎警備です。
参考資料
生没年・初代藩主就任・継室・御三家・島原の乱と閉門は佐賀市が公開する『佐賀市史』、関ヶ原での陣所・家康への謝罪・柳川合戦・閉門の赦免・忠直の死は国立国会図書館デジタルコレクションの『史料綜覧』、最初の正室は佐賀県立図書館のレファレンス事例、長崎警備は長崎市、佐賀城総普請と本丸入城は佐賀城本丸歴史館、城下町は佐賀市、朝鮮出兵と被擄人は佐賀県立名護屋城博物館を中心に整理しました。寛永五年惣着到は、原本を所蔵する徴古館の所蔵品解説によります。勝茂の西軍離脱や柳川合戦には軍記・家譜による叙述差があります。
- 佐賀市: 佐賀市史 第一巻「鍋島氏の抬頭とその佐賀支配」(関ヶ原後の謝罪と柳川攻めによる本領安堵、1607年に勝茂が28歳であったこと、継室が岡部長盛の娘で家康の養女であること、高房・政家の死と龍造寺家督の勝茂への継承)
- 佐賀市: 佐賀市史 第二巻「近世 概説」(関ヶ原で西軍に味方し家康に陳謝したこと、柳川の立花氏討伐、元茂・直澄・直朝による小城・蓮池・鹿島の分封、1657年の光茂襲封)
- 佐賀市: 佐賀市史 第二巻「佐賀藩の成立」(1611年の本丸移居、元茂の小城相続と生母の家柄、高源院の子・忠直の本家相続)
- 佐賀市: 佐賀市史 第二巻「鍋島藩政の展開」(島原の乱への出陣、原城本丸一番乗り、軍令違反による出仕停止と江戸桜田屋敷での閉門、一番乗りが予定の行動だった可能性)
- 佐賀市: 佐賀市史 第二巻「付録 鍋島諸家系図」(勝茂の子の元茂・忠直・直澄・直朝と、忠直の子・光茂)
- 佐賀市: 佐賀市史 第二巻「年表」(1600年の伏見城・安濃津城・松坂城攻めと柳川攻め、1617年の元茂の小城相続、1638年の閉門、1657年の勝茂の死)
- 国立国会図書館デジタルコレクション: 史料綜覧 巻13(1600年、勝茂が伊勢野代に陣して西軍敗報で大坂へ退いたこと、井伊直政・本多正信・円光寺元佶を頼った家康への謝罪と帰国、城島に陣し江上で立花勢を破ったこと)
- 国立国会図書館デジタルコレクション: 史料綜覧 巻17(1635年の忠直の死、1638年の出仕停止・屏居と同年12月の赦免)
- 佐賀県立図書館(レファレンス協同データベース): 勝茂の正室が伊予宇和島城主・戸田勝隆の娘であること
- 佐賀県立佐賀城本丸歴史館: テーマ展「鍋島家の女性たち」(菊姫が家康の養女で、関ヶ原後の徳川家と鍋島家を結んだこと)
- 長崎市: 戸町番所跡(1641年の筑前藩、1642年の佐賀藩への長崎港警備命令と隔年交代、西泊・戸町の番所)
- 徴古館(所蔵品解説): 寛永五年惣着到(1628年作成、知行高順に並ぶ最初の本格的な佐賀藩士名簿)
- 佐賀県立佐賀城本丸歴史館: 佐賀城の歴史
- 佐賀市: 佐賀城下町地区
- 佐賀県立名護屋城博物館: 文禄・慶長の役と佐賀の被擄人
- 佐賀県立博物館: 朝鮮軍陣図屏風と鍋島家