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畿内きない

畿内とは?

畿内とは、山城・大和・河内・和泉・摂津の五か国のことで、当時「天下」とも呼ばれた範囲です。今の京都府南部・奈良県・大阪府・兵庫県南東部にあたります。この五か国には京都の公家や大きな寺社、地元で力をつけた土豪どごう(村や地域の有力者)、自治を強めた港町が、それぞれの基盤を持っていました。

古代の律令制で、大和・山城・河内・摂津・和泉の五か国を畿内とし、残りの国々を七つの道に分けます。
五か国は隣り合っていますが、都・大きな寺社・港と、抱えているものがそれぞれ違います。
1467年、応仁・文明の乱の戦火が畿内・近国に広まります。尼崎地域では、荘園の年貢が京都の領主に届かなくなっていきます。
尼崎は港町として発展し、大坂本願寺を中心とするつながりが村まで広がります。
1553年に三好長慶が芥川山城に入り、1560年に飯盛城へ移ります。1568年、織田信長おだ のぶながが芥川山城の三好氏を破ります。
当時、畿内は「天下」とも呼ばれました。この範囲を抑えた三好長慶は、最初の「天下人」ともいえます。

五畿七道——律令の区分として、五か国が畿内と決められた

畿内という区分は、古代の律令制で全国を分けたときの呼び名として使われてきた。大和・山城・河内・摂津・和泉の五か国を畿内とし、残りの国々を東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七つの道に分ける。都からそれぞれの道へ向かう道が通じていた。

五畿七道 五か国と、七つの道に分けた

五畿七道は、古代の律令制で国々をまとめて治めるために引かれた区分だ。畿内と七道をあわせて、全国をおおう。

道の名 地方の名が、そのまま街道の名になった

七道の名は、もともと国々をまとめた地方の呼び名だった。都から諸道へ向かう道が通じていて、東海道や山陽道といった地方の名は、そのままその道すじの街道をさす呼び名になった。

五か国——都と大きな寺社と港が、五つに分かれて入っている

五か国は隣り合っているが、抱えているものが違う。都と朝廷、大きな寺社、山地に築かれた城、港と商いが、五つの国に分かれて入っている。

大和奈良の興福寺こうふくじのような大きな寺社があり、離れた国にまで荘園しょうえん(公家や寺社が持つ領地)を持っていた。
山城京都が置かれ、朝廷と室町幕府の政治がここで動いた。
河内生駒山地いこまさんちが大和との境をなし、その山の上の城が畿内を支配する拠点になった。
摂津淀川と大阪湾に港町が並び、京都へ攻めのぼる本拠が置かれた。
和泉大阪湾に面した堺があり、港町として栄えた。

戦乱——応仁の乱と明応の政変で、五か国が戦いの場になった

応仁・文明の乱は足利将軍家の家督争いから始まり、その戦火はたちまち畿内・近国に広まった。西軍に味方するため、周防すおう国山口から大内政弘まさひろの軍が畿内へ進出してくる。京都で始まった争いは、五か国の港町や村にまで及んだ。

1467年 尼崎焼き討ち——町の「若衆」が敵対した

摂津の港町・尼崎は、1467年に進出してきた大内政弘の軍に焼き討ちにされた。支配されることを拒んだためで、町の年長者は従ったものの、若衆わかしゅ(町の若者の集団)が大内氏に「敵対」した。

荘園 年貢が、京都の領主に届かなくなった

応仁・文明の乱を経るなかで、尼崎あたりの荘園は領主の手から完全に離れていった。守護細川氏の代官だいかん(領主に代わって年貢を集める役)と地元の土豪が手を組み、年貢を京都の公家や寺社に納めず、自分たちの手元にとどめたためだ。奈良の興福寺が持つ武庫荘むこのしょうでは、太田氏・吹田氏・伊丹氏らが入れ替わり代官となって介入した。

1493年 明応の政変——摂津が政権争奪の戦場になった

1493年、細川政元ほそかわ まさもとが将軍・足利義材よしき(のちの義稙よしたね)を追放して政権を握った。この明応の政変のあと、摂津国は本格的な戦国の世を迎える。当時、京都の政権を争っていた細川氏の領国だったため、政権の争奪をかけた大規模な戦闘がしばしば繰り広げられた。

地元から 摂津西部で、伊丹氏と池田氏が伸びた

細川氏と三好氏の抗争のもとで、摂津西部(千里せんり丘陵より西)では、伊丹氏や池田氏が村に住む武士から有力な武士へと成長した。彼らはさらに、地域の武士たちを自分のもとに統合していった。

港と寺内町——大阪湾岸の町と、本願寺のつながりが広がった

大阪湾岸の町と村は、力をつけていった。西国と京都を行き来する物や人の量が増え、神崎川かんざきがわ河口部の尼崎と大物だいもつの港町はいっそう栄えた。

港町 尼崎は、大阪湾内で3番目の港町だった

尼崎は、堺、兵庫に次いで大阪湾内で3番目の港町として発展を遂げ、有数の自治都市として繁栄した。自治の中核を担っていたのは日蓮宗にちれんしゅう(法華宗)の門徒で、一向宗の勢力は隣の大物にも進出していた。焼き討ちに見舞われながらも、町のにぎわいは絶えなかった。

寺内町 大坂本願寺のつながりが、村まで届いた

村の有力者から村人まで、広い階層に浄土真宗(一向宗)が受け入れられていった。大坂(石山)本願寺を中心とする政治と宗教のつながりが張りめぐらされ、尼崎地域では、その拠点として塚口つかぐち寺内町が成長する。

拠点——芥川山城・飯盛城から、京都へ攻めのぼった

戦国後期、細川氏の家臣から台頭した三好氏は、摂津国の越水こしみず(今の西宮市)と芥川あくたがわ(今の高槻市)に本拠を置き、京都へ攻めのぼる基盤とした。本拠は摂津から河内へ移り、そのたびに畿内の政治が動く場所も変わっていく。

1553年 芥川山城——摂津国で最大の城に、長慶が入った

芥川山城あくたがわやまじろは、今の高槻市の三好山(標高約183メートル)にある。城域は東西約500メートル、南北約400メートルと当時の摂津国で最大の規模で、摂津国を束ねた守護の細川高国たかくにが築いた。1553年に三好長慶が入り、ここを拠点として畿内に政治支配を及ぼす。長慶のもとには武家をはじめ京都の寺社や公家、裁きを求める周辺の村の人々が訪れ、連歌師や儒学者じゅがくしゃといった多くの文化人も登城した。

1560年 飯盛城——京都と五畿内を支配する拠点になった

飯盛城いいもりじょうは、大阪府と奈良県の境を南北に連なる生駒山地の北の支脈、標高約314メートルの飯盛山の山頂一帯にある。城域は南北約700メートル、東西約400メートルに及ぶ西日本有数の規模の山城で、1560年に三好長慶が入城したあとは、当時の日本の中心であった京都や五畿内を支配する拠点として機能した。飯盛城で開かれた連歌の会は「飯盛千句」として記録が残る。

発掘 石垣・礎石建物・瓦を、先に取り入れていた

飯盛城跡の発掘調査では、のちの織豊系城郭しょくほうけいじょうかく(信長と秀吉の時代の城)に共通する三つの要素とされる石垣、礎石そせき建物、瓦を、飯盛城が先行して取り入れていたことが判明した。城を訪れたイエズス会の宣教師を通じて、ヨーロッパで刊行された文献や地図でもこの城は紹介されている。

1568年 芥川山城の交代——信長が入り、新しい支配を表明した

1568年、足利義昭あしかが よしあきを擁して上洛を目指す織田信長は、芥川山城に籠る三好氏を破り、2週間ほど滞在した。その間、信長は天皇の勅使ちょくしをはじめとするさまざまな人を迎え、この地で新たな支配を表明している。

天下——畿内は当時「天下」とも呼ばれた

畿内を押さえることが何を意味したかは、当時の言葉に残っている。五か国は日本の中枢であり、その範囲そのものが「天下」とも呼ばれた。

1522年から1564年 三好長慶——最初の「天下人」ともいえる

日本の中枢であった畿内を抑え、堺の重要性を認めてその掌握に努めたのが三好長慶だ。当時、畿内は「天下」とも呼ばれたため、長慶は最初の「天下人」ともいえる。

言い方 京都を含めて数えるか、京都と並べて書くか

律令の区分では、京都のある山城が畿内の五か国の一つになる。一方で、飯盛城を「京都や五畿内を支配する拠点」と記すように、京都と五か国を並べて示す資料もある。畿内という言葉は、京都をその内側に数えるか、京都と対にして書くかで、資料によって書き方が分かれる。

畿内の疑問に答える

五畿七道は、いつまでの区分だった?

畿内と七道という分け方は古代の律令制で始まり、1868年に北海道が加わって五畿八道とも呼ばれるようになった。増えたのは道の側で、北海道が八つ目の道になる。

畿内の村は、京都の領主に従っていた?

京都の領主に従わない村と武士も現れていく。今の尼崎市の田能たのでは、田能村大和守やまとのかみが用水をめぐって、隣の原田荘はらだのしょう(今の豊中市)の領主である奈良の興福寺・春日社と争った。大和守は裁判に敗れて領地を取り上げられたが、その背後には橘御園たちばなのみその内の3か村の百姓らがついていた。

畿内でキリスト教が広まったのは、なぜ?

飯盛城に入った三好長慶が、布教を許可してキリシタンの保護を命じたためだ。1563年に飯盛城下での布教が許され、1564年には飯盛城で2度にわたり、三箇さんが城主の三箇サンチョ、のちに若江・八尾城主となる池田教正のりまさシメアンなど70余名の家臣が洗礼を受けた。これを契機として「河内キリシタン」が広がっていく。

現地に何が残っている?

飯盛城跡(四條畷市・大東市)には、多数の曲輪くるわ(城の中の平らな区画)や石垣、土塁、堀の跡が良好な状態で残る。芥川山城跡(高槻市)にも曲輪や堀切、土塁が残るが、三好山は全域が私有地で整備されていないため注意がいる。四條畷市の千光寺せんこうじ跡から出土した田原礼幡れいまんキリシタン墓碑は、国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最も古く、四條畷市歴史民俗資料館で常設展示されている。長慶の葬儀が行われた八尾市の真観寺しんかんじには、長慶と甥おいの義継の宝篋印塔ほうきょういんとう(供養のための石塔)が二基並んでいる。

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参考にした資料