畿内とは?
畿内とは、山城・大和・河内・和泉・摂津の五か国のことで、当時「天下」とも呼ばれた範囲です。今の京都府南部・奈良県・大阪府・兵庫県南東部にあたります。この五か国には京都の公家や大きな寺社、地元で力をつけた土豪(村や地域の有力者)、自治を強めた港町が、それぞれの基盤を持っていました。
五畿七道——律令の区分として、五か国が畿内と決められた
畿内という区分は、古代の律令制で全国を分けたときの呼び名として使われてきた。大和・山城・河内・摂津・和泉の五か国を畿内とし、残りの国々を東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七つの道に分ける。都からそれぞれの道へ向かう道が通じていた。
五畿七道 五か国と、七つの道に分けた
五畿七道は、古代の律令制で国々をまとめて治めるために引かれた区分だ。畿内と七道をあわせて、全国をおおう。
道の名 地方の名が、そのまま街道の名になった
七道の名は、もともと国々をまとめた地方の呼び名だった。都から諸道へ向かう道が通じていて、東海道や山陽道といった地方の名は、そのままその道すじの街道をさす呼び名になった。
五か国——都と大きな寺社と港が、五つに分かれて入っている
五か国は隣り合っているが、抱えているものが違う。都と朝廷、大きな寺社、山地に築かれた城、港と商いが、五つの国に分かれて入っている。
| 大和 | 奈良の興福寺のような大きな寺社があり、離れた国にまで荘園(公家や寺社が持つ領地)を持っていた。 |
|---|---|
| 山城 | 京都が置かれ、朝廷と室町幕府の政治がここで動いた。 |
| 河内 | 生駒山地が大和との境をなし、その山の上の城が畿内を支配する拠点になった。 |
| 摂津 | 淀川と大阪湾に港町が並び、京都へ攻めのぼる本拠が置かれた。 |
| 和泉 | 大阪湾に面した堺があり、港町として栄えた。 |
戦乱——応仁の乱と明応の政変で、五か国が戦いの場になった
応仁・文明の乱は足利将軍家の家督争いから始まり、その戦火はたちまち畿内・近国に広まった。西軍に味方するため、周防国山口から大内政弘の軍が畿内へ進出してくる。京都で始まった争いは、五か国の港町や村にまで及んだ。
1467年 尼崎焼き討ち——町の「若衆」が敵対した
摂津の港町・尼崎は、1467年に進出してきた大内政弘の軍に焼き討ちにされた。支配されることを拒んだためで、町の年長者は従ったものの、若衆(町の若者の集団)が大内氏に「敵対」した。
荘園 年貢が、京都の領主に届かなくなった
応仁・文明の乱を経るなかで、尼崎あたりの荘園は領主の手から完全に離れていった。守護細川氏の代官(領主に代わって年貢を集める役)と地元の土豪が手を組み、年貢を京都の公家や寺社に納めず、自分たちの手元にとどめたためだ。奈良の興福寺が持つ武庫荘では、太田氏・吹田氏・伊丹氏らが入れ替わり代官となって介入した。
1493年 明応の政変——摂津が政権争奪の戦場になった
1493年、細川政元が将軍・足利義材(のちの義稙)を追放して政権を握った。この明応の政変のあと、摂津国は本格的な戦国の世を迎える。当時、京都の政権を争っていた細川氏の領国だったため、政権の争奪をかけた大規模な戦闘がしばしば繰り広げられた。
地元から 摂津西部で、伊丹氏と池田氏が伸びた
細川氏と三好氏の抗争のもとで、摂津西部(千里丘陵より西)では、伊丹氏や池田氏が村に住む武士から有力な武士へと成長した。彼らはさらに、地域の武士たちを自分のもとに統合していった。
港と寺内町——大阪湾岸の町と、本願寺のつながりが広がった
大阪湾岸の町と村は、力をつけていった。西国と京都を行き来する物や人の量が増え、神崎川河口部の尼崎と大物の港町はいっそう栄えた。
拠点——芥川山城・飯盛城から、京都へ攻めのぼった
戦国後期、細川氏の家臣から台頭した三好氏は、摂津国の越水(今の西宮市)と芥川(今の高槻市)に本拠を置き、京都へ攻めのぼる基盤とした。本拠は摂津から河内へ移り、そのたびに畿内の政治が動く場所も変わっていく。
1553年 芥川山城——摂津国で最大の城に、長慶が入った
芥川山城は、今の高槻市の三好山(標高約183メートル)にある。城域は東西約500メートル、南北約400メートルと当時の摂津国で最大の規模で、摂津国を束ねた守護の細川高国が築いた。1553年に三好長慶が入り、ここを拠点として畿内に政治支配を及ぼす。長慶のもとには武家をはじめ京都の寺社や公家、裁きを求める周辺の村の人々が訪れ、連歌師や儒学者といった多くの文化人も登城した。
1560年 飯盛城——京都と五畿内を支配する拠点になった
飯盛城は、大阪府と奈良県の境を南北に連なる生駒山地の北の支脈、標高約314メートルの飯盛山の山頂一帯にある。城域は南北約700メートル、東西約400メートルに及ぶ西日本有数の規模の山城で、1560年に三好長慶が入城したあとは、当時の日本の中心であった京都や五畿内を支配する拠点として機能した。飯盛城で開かれた連歌の会は「飯盛千句」として記録が残る。
発掘 石垣・礎石建物・瓦を、先に取り入れていた
飯盛城跡の発掘調査では、のちの織豊系城郭(信長と秀吉の時代の城)に共通する三つの要素とされる石垣、礎石建物、瓦を、飯盛城が先行して取り入れていたことが判明した。城を訪れたイエズス会の宣教師を通じて、ヨーロッパで刊行された文献や地図でもこの城は紹介されている。
1568年 芥川山城の交代——信長が入り、新しい支配を表明した
1568年、足利義昭を擁して上洛を目指す織田信長は、芥川山城に籠る三好氏を破り、2週間ほど滞在した。その間、信長は天皇の勅使をはじめとするさまざまな人を迎え、この地で新たな支配を表明している。
天下——畿内は当時「天下」とも呼ばれた
畿内を押さえることが何を意味したかは、当時の言葉に残っている。五か国は日本の中枢であり、その範囲そのものが「天下」とも呼ばれた。
1522年から1564年 三好長慶——最初の「天下人」ともいえる
日本の中枢であった畿内を抑え、堺の重要性を認めてその掌握に努めたのが三好長慶だ。当時、畿内は「天下」とも呼ばれたため、長慶は最初の「天下人」ともいえる。
言い方 京都を含めて数えるか、京都と並べて書くか
律令の区分では、京都のある山城が畿内の五か国の一つになる。一方で、飯盛城を「京都や五畿内を支配する拠点」と記すように、京都と五か国を並べて示す資料もある。畿内という言葉は、京都をその内側に数えるか、京都と対にして書くかで、資料によって書き方が分かれる。
畿内の疑問に答える
五畿七道は、いつまでの区分だった?
畿内と七道という分け方は古代の律令制で始まり、1868年に北海道が加わって五畿八道とも呼ばれるようになった。増えたのは道の側で、北海道が八つ目の道になる。
畿内の村は、京都の領主に従っていた?
京都の領主に従わない村と武士も現れていく。今の尼崎市の田能では、田能村大和守が用水をめぐって、隣の原田荘(今の豊中市)の領主である奈良の興福寺・春日社と争った。大和守は裁判に敗れて領地を取り上げられたが、その背後には橘御園内の3か村の百姓らがついていた。
畿内でキリスト教が広まったのは、なぜ?
飯盛城に入った三好長慶が、布教を許可してキリシタンの保護を命じたためだ。1563年に飯盛城下での布教が許され、1564年には飯盛城で2度にわたり、三箇城主の三箇サンチョ、のちに若江・八尾城主となる池田教正シメアンなど70余名の家臣が洗礼を受けた。これを契機として「河内キリシタン」が広がっていく。
現地に何が残っている?
飯盛城跡(四條畷市・大東市)には、多数の曲輪(城の中の平らな区画)や石垣、土塁、堀の跡が良好な状態で残る。芥川山城跡(高槻市)にも曲輪や堀切、土塁が残るが、三好山は全域が私有地で整備されていないため注意がいる。四條畷市の千光寺跡から出土した田原礼幡キリシタン墓碑は、国内で確認されている190数例のキリシタン墓碑のうち最も古く、四條畷市歴史民俗資料館で常設展示されている。長慶の葬儀が行われた八尾市の真観寺には、長慶と甥の義継の宝篋印塔(供養のための石塔)が二基並んでいる。
参考にした資料
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース/北海道立図書館の事例「平安時代、五畿七道の次の三つの地域名について、当時どう読まれていたか」(畿内=大和・山城・河内・摂津・和泉の五か国であること、七道の構成、都から諸道へ道が通じたこと、東海道などの地方名が街道名になったこと、1868年の五畿八道)
- 大阪府「三好長慶ゆかりの地」(芥川山城・飯盛城の位置と規模、細川高国の築城、1553年の長慶入城と畿内支配、1560年の飯盛城への移転と「京都や五畿内を支配する拠点」、飯盛城跡の発掘、1568年の信長の滞在、飯盛城でのキリスト教布教許可と受洗、田原礼幡キリシタン墓碑、真観寺の墓)
- 堺市博物館「特別展 堺と武将 三好一族の足跡」チラシのテキスト版(畿内が日本の中枢で「天下」とも呼ばれたこと、堺の掌握、三好長慶の生没年と最初の「天下人」という位置づけ)
- 尼崎市立歴史博物館「Web版 図説尼崎の歴史 中世編」(応仁・文明の乱の畿内・近国への拡大と尼崎焼き討ち、荘園からの年貢の途絶、明応の政変後の摂津国、三好氏の越水・芥川の本拠、伊丹氏・池田氏の成長、大坂本願寺と塚口寺内町、大阪湾内で3番目の港町、田能村大和守の争い)