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興福寺こうふくじ

興福寺こうふくじは、奈良にある藤原氏の氏寺です。中世には守護の置かれなかった大和国を実質的に治め、「大名のいない国」の中心として戦国時代を迎えました。

藤原氏の氏寺 大和の実質的な守護 大和武士は衆徒・国民 尋尊の日記の舞台

要点

  • 大和国には守護が置かれず、興福寺がその代わりだった。興福寺は大和最大の荘園領主で、鎌倉時代以降、武家の守護に代わって実質的な守護の役割を担った。武家には次男・三男を寺に入れる慣行があり、大和や畿内の武家の子弟が興福寺に集まって、寺と武家は持ちつ持たれつの関係を築いていた。
  • 大和の武士は、ほぼ全員が「興福寺の身内」だった。興福寺は地侍に僧侶の資格を与えて自らの統治システムに組み込み、彼らは荘園の管理を担いながら「衆徒」「国民」と呼ばれる大和武士に成長した。奈良盆地の北の筒井氏・古市氏、南の越智氏・十市氏はその代表で、応仁の乱では筒井氏が東軍、越智氏が西軍に付いて大和も二つに割れた。大和に核となる戦国大名が生まれなかったのは、この体制のためになる。
  • 「記録の寺」でもあった。興福寺には大乗院・一乗院という二つの門跡(皇族・摂関家の子弟が入る寺院)があり、大乗院の尋尊らが書き継いだ日記『大乗院寺社雑事記』は、正長の土一揆や山城国一揆など戦国前夜の社会を伝える第一級の史料になっている。大和を治める立場だったからこそ、畿内の情報がここに集まった。
流れ

氏寺から、大和の支配者、そして戦国の終わりまで

  1. 01藤原氏の氏寺として始まる

    710年の平城京遷都とともに現在地に移り、藤原氏の繁栄を背景に大寺院へ成長した。摂関家との結びつきは中世まで続き、寺のトップ層には摂関家の子弟が入った。

  2. 02鎌倉時代、守護の置かれない国になる

    頼朝が全国に守護を置いた際も、大和には置かれなかった。最大の荘園領主である興福寺の力が強く、朝廷との関係も微妙だったためで、以後、興福寺が実質的な守護として大和の秩序を担うことになる。

  3. 03衆徒・国民という大和武士が育つ

    興福寺は地侍に僧侶の資格を与えて配下に組み込み、荘園の管理を任せた。彼らはやがて衆徒・国民と呼ばれる武士団に成長し、筒井・古市・越智・十市らの家が大和各地に根を張った。

  4. 04応仁の乱、大和も二つに割れる

    筒井氏は東軍、越智氏は西軍に付き、大和の国衆も両陣営に分かれて戦った。戦乱は民衆にも大きな犠牲を強い、疎開してきた公家たちを興福寺が受け入れた。この時期の様子を、大乗院の尋尊が日記に書き残している。

  5. 05戦国後期、松永久秀まつなが ひさひでの大和乱入

    1560年代、三好家の重臣・松永久秀が大和へ進出して多聞城を築き、衆徒の筒井氏と激しく争った。1567年には東大寺大仏殿が戦火で焼け落ちる。寺の権威だけでは、外から来る戦国の武力を止められなくなっていた。

  6. 06統治の終わり——筒井から秀長へ

    信長の時代、大和の支配権は衆徒出身の筒井順慶に与えられ、秀吉の時代には弟の豊臣秀長とよとみ ひでなが郡山城に入った。興福寺の大和支配はここで終わり、以後は寺として近世を生きる。阿修羅像や五重塔で知られる今の興福寺の姿は、その先にある。

検証

「寺が国を治める」は、どこまで本当か

語られ方 観光と国宝の寺

今の興福寺は阿修羅像と五重塔の観光寺院として知られ、「大和一国を治めた権力体」だった歴史は意外なほど知られていない。また「寺の支配」というと僧兵の武力だけが想像されがちだが、興福寺の力の本体は、荘園と、武士に僧侶の資格を与えて取り込む制度の方だった。

資料 確かめられること

大和に守護が置かれず興福寺が実質的な守護を務めたこと、武家の子弟を受け入れ、地侍を衆徒・国民として組み込んだ統治システム、筒井・越智ら国衆の分布と応仁の乱での分裂は、奈良県の歴史文化資源の解説で確かめられる。内側の記録としては大乗院寺社雑事記が残り、統治の実務まで追うことができる。

どう読むか

興福寺から、戦国の大和を読む

  • 比叡山・本願寺と並ぶ「第三の宗教権力」として読める。延暦寺は武力と経済で、本願寺は信仰の網で力を持ったが、興福寺は「守護の代行」という制度そのもので一国を治めた。宗教勢力と一口に言っても力の源が全く違うことが、三つを並べると見えてくる。
  • 筒井順慶の「出自」が分かると、大和の戦国が分かる。順慶は興福寺の衆徒の家の出で、寺の権威と在地の武力を併せ持つ存在だった。松永久秀との争いは「外来の実力者vs寺の身内」の構図で、順慶が最終的に大和一国を得たのは、衆徒の家が戦国大名に化けた瞬間といえる。
  • 「大名のいない国」は、外の力に弱かった。興福寺の体制は内側の秩序維持には長けていたが、松永久秀のような外から来る武力を正面から止める軍事力はなかった。伊賀の惣国一揆や加賀の一向一揆と同じく、大名不在の統治は、統一政権の時代が来ると持ちこたえられなかった。

興福寺の日記が伝えた事件は正長の土一揆山城国一揆、大仏殿が焼けた戦いは東大寺大仏殿の兵火で整理しています。

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参考にした資料