山城国一揆とは?
- 戦をやめさせたのは、幕府ではなく地元だった。応仁の乱が終わっても、畠山政長と畠山義就の両軍は南山城で対陣を続け、陣取りと徴発で土地は荒れ続けた。1485年12月、南山城の国人たちは住民とともに集会を開き、両軍に国からの退去を要求。両畠山軍は実際に撤退した。大名の軍を、国の寄り合いが追い出した事件になる。
- 退去のあとに、自前のルールを作った。翌1486年2月、国人たちは宇治の平等院に集まって「国中掟法」という掟を定め、寺社や本来の領主の土地を戻すこと、新しい関所を作らないことなどを取り決めた。以後、月ごとの当番(月行事)が国の運営にあたる自治が約8年続いた。
- 自治は1493年、内側から終わった。幕府で明応の政変が起きた年、幕府の実力者・伊勢氏が山城守護になると、国人の間で受け入れをめぐって対立が起き、一揆は解体した。外の大軍に敗れたのではなく、守護を拒み続けるか従うかで割れて終わったところに、この自治の限界が表れている。
両畠山の対陣から、自治の解体まで
- 01応仁の乱後も続いた畠山氏の私闘
1477年に応仁の乱が終わっても、家督を争う畠山政長と畠山義就の戦いは続き、南山城が主戦場になった。両軍は木津川を挟んで対陣し、兵糧や人夫の徴発が住民を苦しめた。
- 021485年12月、集会と退去要求
南山城の国人たちは15〜60歳の者による集会を開き、両畠山軍に対して国外退去を要求した。対陣の長期化に倦んでいた両軍は、これを受けて撤退する。戦わずに大名の軍を動かした、集会の力の見せ場だった。
- 031486年2月、平等院で国中掟法
国人たちは平等院に集まり、国の運営ルール「国中掟法」を定めた。寺社本所領の還付、新関の停止などを取り決め、月行事による寄り合いの統治が始まる。
- 04約8年の自治
守護を置かないまま、南山城の国人と住民は約8年間、国を運営した。ただし幕府や寺社との関係を断ったわけではなく、既存の権威と折り合いをつけながらの自治だった。
- 051493年、解体
明応の政変で幕府の実権を握った側近勢力のもと、伊勢貞陸が山城守護となる。受け入れをめぐって国人は分裂し、抵抗した勢力も鎮圧されて、一揆の自治は終わった。
「農民の自治」だったのか
山城国一揆から、何が見えるのか
- 「下剋上」を同時代人の目で見られる事件になっている。下剋上というと大名の家臣が主家を乗っ取る話を思い浮かべるが、興福寺の僧が「下極上の至り」と書いたのは、国人と住民の寄り合いが大名の軍を動かしたこの事件だった。戦国の秩序の逆転は、城の中の陰謀だけでなく、国の寄り合いからも起きていた。
- 自治の中身は「大名がいらない国」の実験だった。軍の退去、土地の返還、関所の停止、月行事の運営——国中掟法が定めたのは、守護がやるべき仕事を寄り合いで代行する仕組みになる。加賀の一向一揆が信仰で約100年やったことを、山城は国人の連合で8年やった、と並べて読むと、一揆の統治の可能性と限界が見えてくる。
- 終わり方が、戦国の現実を示している。山城国一揆は戦いに敗れて滅んだのではなく、幕府の守護任命を前に「従うか拒むか」で割れて解体した。頭を持たない水平の連合は、外圧そのものより、外圧をめぐる内部対立に弱い。伊賀の惣国一揆が信長の大軍に面で潰されたのとは対照的な終わり方といえる。
山城国一揆の疑問に答える
「南山城」って、どのあたり?
山城国(今の京都府南部)の南半分、木津川に沿った宇治から木津にかけての一帯を指す。京都と奈良を結ぶ回廊にあたり、街道と川の水運が通る交通の要地だった。奪い合う価値が高い土地だったからこそ、畠山の両軍はここで11年も対陣を続け、住民の我慢も限界に達した。
なぜ集会の場所が平等院だったのか?
宇治の平等院は、10円玉の絵柄で知られる藤原氏(平安時代に朝廷の実権を握った公家の名門)ゆかりの大寺院で、南山城でいちばん格式の高い場所だった。特定の国人の城で集まれば「誰が上か」の争いになるが、寺なら中立で、神仏の前での取り決めという重みも出る。一味神水の誓いと同じで、寄り合いの合意には神仏の権威という裏打ちが必要だった。
「国中掟法」には、結局何が書いてあったの?
全文は残っておらず、興福寺の尋尊が日記(大乗院寺社雑事記)に書き留めた内容で知られている。柱は二つで、①寺社や公家など本来の持ち主の荘園は元に戻す、②新しい関所は作らせない。要するに「戦争でめちゃくちゃにされた土地と商売を、対陣が始まる前の正常な状態に戻す」という宣言になる。国の運営は月ごとの当番(月行事)が担い、三十六人の国人が中心になったと伝わる。革命の綱領ではなく復旧のルールだったところに、この一揆の性格がよく出ている。